人生

やっていきましょう

自分は「すべてのものに価値はない」という価値観を持った人間である。そのような前提にあるので、大抵のことには虚しさを感じてしまう。何かに関心を持つこともなければ、何かをしようと意欲することもできない。何をやったところで、自分の自尊心の回復は望まれないのだと諦めきっている。

しかし自分にはかつて価値観があった。今はほとんど否定の対象になっているが、明らかに自分はそれらの支持者であり、自分の一部にしようと努めていた。しかし結局それらは他人のものになり、自身の憎悪を喚起させるようになったので捨ててしまった。

自分は他人に負けた人間である。これまで他人が決めた価値観に縛られて生きてきた。そしておそらくこれからもそうだろう。いつも他人の顔色を窺っている。自分が誰かを傷つけはしないかと考えすぎる。そうやって他人を立てているうちに自分が何をしたかったのかわからなくなってくる。

だからより正確に言えば、自分には自分が価値があると自信を持って言える対象が存在しない、ということになる。自分の価値判断は常に他者の検閲を経ることになる。この他者は実在の人間ではなく、自身の不安の根源としての他者である。自分が恐れている他者は独りよがりで、話が通じなくて、非合理的で、自分を曲解し、感情的で、排他的な人間像である。この妄想に自分の価値観を罵倒させる。

この不安の根源を自分から切り離し、自分を自分の支配下に置くことが改善につながる。そのためには自分自身の価値観を素直に受け止め、自分の価値観を否定する人間に対しては断固戦うという姿勢を持たなければならない。

自分の人生の前提は、自分が相手に対して誠心誠意を努めれば必ずそれに応えてくれるというものだった。しかし自分の善意は多くの場合気づかれないか、そんなことは関係なく自分に対して敵意を向けられる時は向けられるのである。自分はそこで更に「自分に何か原因があるかもしれない。相手の反感を招くような言動を修正すれば、相手も分かってくれるだろう」と考えた。しかしそうやって自分に負担をかけ続ければかけ続けるほど、相手はその状態に無自覚になり、その優位を惰性で維持するようになる。

そこでようやく、自分は自身のコンフォートゾーンを巡って他者と戦わなければならないということが分かってきた。彼らが自分に自信を持っているのは、自分の価値観を追求できる心理的な環境を自分の手で築き上げ守り抜いてきたからだ。ブレない自分を持っているのは、自分自身の内面を完全に制御下に置いていて、自分の心に余裕があるからだ。

自分は他人に自身の庭を土足で踏み歩かせていた。自分を守ろうとしてこなかった。そうさせることが強者の余裕であると勘違いしていた。実際はただの痩せ我慢に過ぎなかった。自分は虚勢ではなく実のある余裕を持つべきだった。自分の価値観を命がけで守るという覚悟が足りなかった。

今の自分に自分を守ることができるだろうか。以前本気で自分の価値観を取り戻そうとして失敗している。また同じことになるのではないだろうか。だが当時とは事情が少し違う。前回は「他者への期待」を前提としていたが、自分はもう他者を諦めた。自分は自分の満足を最優先にする。他人に配慮はしない。自分は今この瞬間、自分が良いと思うものを全面的に支持する。