人生

やっていきましょう

関わる人間が少ないと個々の知り合いに依存的になる。遊びの誘いも分散せず、単一の人間にばかり向かうことになる。そうなると一人の人間に対する誘いの頻度が高くなり相手にとって迷惑がかかる。

一方で自分からすればその人間とのひとつひとつの誘いは重要なものになり、断られたり無視されたりすると苦しいものがある。それをどうにかしようとして関係維持を努めようとすると、自分に選択の主導権は無くなり相手の都合にすべて振り回されることになる。そうなるともっと精神を拗らせることになるので、最近は自分から他人と距離を取ることにしている。

少ない人間に依存しないためには依存先を増やすという言葉がある。例えば今やっているゲームがある。このゲームに知り合いを誘うとする。その人間は口には出さないがおそらく乗り気ではない。他の知り合いに声をかける。やはりその人間もやらない。ではどうすればいいか。そのゲームの中のコミュニティに参加して、自分と同じ動機を持つ知り合いを新たに作ればいい。そうすれば乗り気でない知り合いに振り回されることもなくなる。

依存先の少ない人間がよくしがちな勘違いは、自分という一人の人間の複数かつ多様な関心が、そのまますべて他人に当てはまらなければならないと思いがちなところだ。仲のいい人間であれ、関心や熱意が異なる部分は当然にある。ここで自分はその人間との関係を維持するためには、他人の都合に無理に合わせないといけないと思っていた。

だがそれが間違いだった。自分は常にその人間たちと共同生活しているわけではない。適度な距離というものがある。他人の自分に都合の良い部分もそうでない部分もすべて一身で受け止める必要はなかった。合う部分だけで近づき、合わないと思うならその部分では距離を取ればいい。そして複数の部分で個別に合う人間をそれぞれ近くに置けばいい。

そう思うと自分に他人を拒む余裕ができてきた。他人のために生きなくても良いと思えるようになった。自分の主は自分であり、その人間がいなければ自分が成立しないわけではない。仮に友人関係が破たんしてもまた作ればいい。自分はもっと自分都合で生きて良いと言い聞かせる必要がある。そうした方が健全だし、誰かに振り回されることもなくなるだろう。

そして更にこうした他者の拒絶のフェーズを乗り越えて、自分から知り合いを誘うことに何の抵抗もなくなれば最高だろう。今の自分は知り合いに対して拒まれるという前提に臆病になっている。しかしそれはまだ他人に振り回されているということでもある。自分が一人の人間として、自分と異なる他者に対してすれ違うということの前提を受け入れた上で、それでも彼らに平然とぶつかっていくことができれば、自分はもう他者を克服したも同然と言えるだろう。