人生

やっていきましょう

第三章を見直している。1.2年前、この章を完成させた時には自信があった。今ではそこまで完成度が高いとは思えない。むしろ当時のノリが寒く感じる。

すべてがそうではない。幾重にも渡る改善の末に完成されただけあって、話としては最低限楽しめる。しかし細かい部分のセリフの言い回しや世界観の杜撰さ、ストーリーのまとまりの無さを考えると、やはり粗が目立つ。

どうすれば改善できるか。まずは話の整合性を高める。すべてのシーンが互いに因果関係で結ばれていることを確認し、前後で必然の伴わない突飛な展開は排する。次に全体のストーリーと章の固有のストーリーを関連づける。こじつけではなく、物語の自然な流れとして溶け込ませる。これらができていれば8割はもう完成している。しかしそれだけではまだ足りない。

次にキャラクターのセリフを説明ではなく自然な会話にすること。例えばAがBに対して何か目的を話している時にB「なるほど、つまり@@@というわけか」A「そうだ、そのためには@@@と@@@をすればいい、簡単だろう」というような書き方をすることがあまりに多い。

確かにこれでも問題ない。しかし世界観に没入しようとしてセリフを読んでいるとどうしても違和感がある。その正体は自分の頭の中で考えていることと、実際に語られる言葉の間にある溝である。

例えばさっきの話で言うと、言葉として現れるのは「なるほど」だけ。「つまり@@@というわけか」は内面の声だ。この内面の声をそのまま出してしまうと、セリフが説明的になって違和感が生じる。会話は表面上の言葉のやりとりの中で行われ、そこから内面の声や語られなかった情報を類推するものだ。しかしあまりに言葉が少なければ何が言いたいのかさっぱり分からなくなる。

言葉の適量というものを常に考える必要がある。最低限の情報のやり取りで多くのことを語らせる。これができればゲームのセリフとしては問題ない(かつて自分の文章は二者を混同し、内面の声の過剰で満たされていた。だがそうした表現はブログや小説向けであり、小さい枠の中で情報を小分けに伝えていくRPGには不向きである)。

最後に皮肉屋の笑いを洗練させること。久々にこのキャラクターのセリフを見たが、相手を罵倒したいだけの嫌味なだけの奴という印象を受けて興醒めした。自他に対する普遍的な冷笑というロールに徹しなければならない存在が、どこか作者の悪意を代弁しているように感じられるのが薄ら寒いのだ。

このキャラクターはもっと皮肉に徹しなければならない。相手が一番暴いてほしくない弱点をあっさり暴露する存在でなければならない。それは自分も例外ではない。自分の弱さを平然とひけらかし、自身の冷笑に正当性を与えなければならない。ピエロに徹するのだ。

突き詰めれば冷笑は虚無主義に陥る。物語の中で誰もが己の信念のために動いている傍ら、この存在だけが自分を持たずにいる。彼には皮肉によって作品の価値をどこまでも貶める強烈なな力がある。この存在があるからこそ、自分を自己満足に浸らせるような寒々しいストーリーの一切が阻害される。

自分の作品を見直すと度々薄ら寒いと感じる時がある。大抵かつての自分が絶対に面白いと信じて作ったものが、後から見てそれほどのものではないと気づいた時に襲ってくる。過去の自分と今の自分の価値観の相違によって生じる戸惑いを、自分は寒いと形容している。自分に恥じる思いがあるのかもしれない。

これは自分が冷笑に酔っていると分かった時に生じる。冷笑によって自分だけが全知全能で唯一の勝者であると思っていながら、実際皮肉の切れ味も悪く、冷笑として低質なもの(すなわち欠落した自尊心を回復するために用いられていることがあからさまな冷笑)に満足していることが分かると、途端に自分の行いを恥じる気持ちになる。

しかしそれは冷笑が悪いわけではない。自分が薄ら寒いと感じるのは、キャラクターのセリフを借りて作者自身の冷笑的態度をプレイヤーにひけらかし、屈服させたがっていることが分かってしまうからだ。そうした自己満足は冷笑の価値を悉く貶める。

冷笑は欠落した自尊心を回復させるための復讐の手段ではない。冷笑とは気配であり、苦痛や不安を笑いに置き換えて楽しむものである。自己満足としてではなく、どこか皮肉をエンターテイメントとして楽しめるものにしたい。今の自分の心境はそんな感じである。

ところで冷笑的態度それ自体には、少なくとも4年以上経ってもまだ寒いと感じることはない。表現の稚拙さや語彙の少なさには不満が生じることがあっても、皮肉から得られる笑いには一切抵抗がない。

やはりそれは自分が冷笑的な世界観に生きているからであり、そこから得られる笑いを強く欲しているからだ。皮肉な言い方をすれば、自分は何かの作品を貶めるような笑いを摂取するために、自分で作品を作っているのである。自他を問わず、自分はとにかく否定の笑いを求めている。

おそらく正当な世界観を求めている人間からすれば気味が悪いことをしている。これもある種の歪んだ自己満足である。しかし自分は更にその満足を否定することにした。この作品を一般レベルにまで落とし込め、冷笑の価値を失わせる。

つまりこういうことだ。冷笑を突き詰めればその人はすべてを冷笑しなければならなくなり、結果として虚無主義に陥る。信念や価値観を持たなくなった人間は、信念に生きている人間たちを冷笑する。しかし往々にして、自己満足を得ている自分には冷笑の矛先が向いていない。

冷笑を更に突き詰めるならば、冷笑それ自体の価値をも貶めなければならない。冷笑の価値を貶めるのは、世界が自分にとって不都合であるという事実である。常に本質を見通していると思い込んでいるキャラクターの思惑通りには世間や状況が動かないということが、彼の冷笑を制御し圧力をかけることになる。しかしこの不都合によって彼の冷笑は更に輝きを増し、彼はそこから新たな冷笑の可能性を切り開こうとする。この不毛さ、不条理さこそ自分が冷笑に求めているものである。