人生

やっていきましょう

スマホをつけてサファリを開くと、閉じる前の画面が表示される。自分の場合それは尾形光琳の検索結果で、サファリを開くたびにあの異様な絵を目の当たりにすることになる。

『燕子花図屏風』。初めて見たのは美術の資料集で、最近上野かどこかで俵屋宗達の『風神雷神図屏風』と並んで鑑賞したことがある。しかしそんな記憶はとうに忘れ、最近まではゲームで忙しく意識すらしていなかった。

ふと思い出したのは家にあった古本を何となく読んでいた時のこと。岡本太郎の『日本の伝統』という本を読んでいたら『燕子花図屏風』に偶然遭遇した。

金箔一色に彩られた背景に緑と青(正確には群青と緑青)の燕子花が並んでいる。たったそれだけの絵なのだが、その異様さに自分は息を呑む。

この絵には安らぎがない。ピントがあっていないような、対象が遊離しているような感じがする。奇妙な感情を覚える。いつか屏風を真近でみた時には、後から切り貼りされたようなコラージュに似た印象を受けた。しかし元禄の世にはペイントもphotoshopも無い。

以前見た時には変な絵だなあと思って気にも留めなかったが、じっくり眺めてみると段々と狂気に引き込まれる。サファリに頻繁に表示される現実感のない燕子花が、自分の正気を侵食する。自分は絵画に対して不安を抱くことなど滅多にないが、この光琳の燕子花は例外である。これが何なのか理解ができない。いくら眺めても動機が見えてこない。

金箔と言えば『風神雷神図屏風』も似た色をしている。しかしこちらの絵は風神と雷神が見事に背景と調和している。見ていて安心する。この暗い彩色を自分は好む。しかしそれ故に自分の記憶に残らない。

『燕子花図屏風』。サファリに現れてからこの絵のことが頭から離れない。特に葉の緑が恐ろしい。この単色が、すべての調和を否定している。

岡本太郎は次のように評している。

あの燕子花の大群の周囲には、地も水もない。群青の花弁のむらがりは、ただ真空の中に咲きほこっているのです。

あらゆる幻想も、思い出も拒否される。画面以外になにものもない世界。──これこそわが国の芸術にはきわめてまれな、非情美をたたえた傑作です。

自分はなるほどと思った。燕子花だけが抜き出されているから異様なのだ。本来そこには土があり、水があり、風があり、その葉の下に生物がいるはずだ。それらがあってこそ自然なのだ。しかしこの絵にはそれらが一切ない。『燕子花図屏風』。ただそれだけがある。これを「真空」と表現したのは素晴らしい。

真空の燕子花が自分に迫ってくる。そこには安らぎもなければ感動もない。ただひとつの違和感、不安、ひとつの不条理だけがある。