人生

やっていく

最近生きているのが苦しいと感じた。辛いではなく、苦しいという感じがした。疲労からではなく、もっと精神的な虚無感から来ている。

自分はずっと何をしているのか分からない。生きていることに意味づけができない。否定も肯定もできない。ただ宙吊りの浮遊感だけがある。

自分が生きていることに価値づけができない。そんなことを考えていたらいつしか寝ていた。

その後不快な夢を見た。自分の住んでいる家をお笑い芸人たちのシェアハウスにするから出て行ってくれと言うのだった。そんな馬鹿な話があるかと怒ったら、なぜか自分の家族、親戚、かつての同級生が現れてきて、さすがにここは退くのが筋だろうとか、こんな家出ればいいじゃないか、また探せばいいじゃないかと宥めてきた。自分は正当な権利があってここにいるのに、なぜか自分だけが物分かりの悪い人間として扱われ始めた。後から来た芸人たちは自分の存在を鬱陶しそうに眺めていたり、自分のことなんか構わずにお笑いの未来の話で盛り上がっていた。それで頭に血が昇って思い切り周りの人間を怒鳴りつけてやったら、不快なアラームがどこからか鳴り始めて、それが無性に腹が立たしく感じて、爆発しかけていたら目が覚めた。

目覚めてからもしばらく怒りが収まらなかった。

 

 

 

自分の言葉が自分のものでないと思う。自分が書いたことには間違いないがその実感がない。そもそも自分の言葉というものをよく理解していない。言葉が馴染むとかどう運んでいくかとか、どういう語彙が思いつきやすく、扱いやすいかとか、そういう感覚的な愛着があるかどうかの話だ。とにかく、そういう感覚が今の自分に無いということだけは分かっている。

真っ先に思い当たるのは自己への過大評価だ。自分は自分が思うことを言葉にできて当たり前だと思っているが、実際はそれほどの能力はない。自分には語彙も、見識も、知恵も、思考と呼べるものもない。これは謙遜ではなく事実だ。それゆえ自分の内側から言葉が出なくて当然だと思う。しかしそうだと認めたがらない。その心が無意識に「言葉が自分のものでない」などという都合のいい問題に視点をすり替えているだけかもしれない。

実際、このことには心当たりがある。しかし別の問題も関わっていると思う。背伸びするわけでもなく、ただ単純に言葉を書こうと思っている時でさえ、自分のものでない気がしている。今こうしてここに書いている内容も、半分は自分のものだと思っているが、半分は別のものだと思っている。もちろん自分のものに違いはないが、この書き手の正体を自分は掴めない。

もしかしたら、ここに書かれている言葉の数々が、そのまま書き手の正体を暴いているのかもしれない。つまり自分は自己を持たない不安定な存在であり、時に背伸びをし、時に自嘲し、言葉を執拗に推敲したかと思えば投げやりになり、正直な自分を表現しようとする一方で体裁を気にして自己を偽る。オープンにしたかと思えばクローズして、書き始めたかと思えば途中で投げ出している。要するに、自分はいつでも変化し続けている。それほど不安定な自己であるということだ。

自分が常に自分の言葉に違和感を覚えるのはこういうことではないのか。違和感に対する執着も、脆弱で不安定で自己同一性が拡散している自分の変容に対する必死の抵抗と見れば多少の納得はいく。自分はいま、自分だと安心して認められる自分が存在していない状態だといえる。それはこれまでの絶え間ない自己否定の産物だということはよくわかっている。

解決を考えるなら、自分の認めたがらない事実をひとつひとつ受け入れていく他にない。自分はこれまでそうした事実を暴き立てる形で自分に突きつけてきたが、もちろんそれが必要なことだったにせよ、結果としてそれだけでは不十分だった。受容するということが大事なのだが、これがなかなか難しい。

 

自分の頭の中の不完全な思考をそのまま表に出すと大抵後悔する。結局何が言いたいのか相手には分からないし、自分にもよく分からない。分からないが方向は正しいという直感があり、後付けで理屈をこねていくうちに輪郭が現れてきて、しばらくしてからなぜそれが正しいのか(あるいは何が正しくなかったのか)が理解できる。しかしその「しばらく」がなければ思考は壊れていて、無いに等しい。

本を棚にしまうように答えをいくつもストックしていて、それを容易に引き出せる人間を羨ましく思う。自分の頭の中は書きかけのメモで溢れていて、どこに何があるのか全くわからない。どのメモを拾えるかはまったくの運であり、紛失、忘却と隣り合わせである。そうした思考のギャンブルを経ずに人生をコントロール下に置いている人間がいる。彼らを見習いたい

久々に自分の創作を見たら全く面白くなかった。この原因は色々あるだろうが一番の理由はテンポの悪さだ。1つの展開に対して話が長すぎる。情報を詰め込みすぎて退屈に思える(その情報も解像度が粗く、作り手としての自分の無知が反映されている)。

おそらく全体的にもう一度修正すべきだと思う。しかし自分は敢えて次の場面に行く。このテンポの悪さは一部ではなく全体的な問題として考えられる。そのためまずは次の場面に行き、テンポの良い展開を作ることを念頭に置く。もし成功すれば、そのケースがモデルになる。

テンポの悪さだけを考えていたら、あれもこれもと先に進めない。気が付いたらそれと向き合うことが面倒になって、また時間を置いてから同じ問題に気づき、同じことを繰り返している。

1週間ぶりに創作を開いたところ自分の言葉の酷さに具合が悪くなった。率直に言ってあまり面白くない。しかし手直しすれば多少は良くなるという直感があった。

こんなことを繰り返すからまったく前に進まない。しかしとりあえず今日だけはこの不快な部分を修正することにした。30分ほどいじっただけでかなり変わったのでやって良かったと思った。

新しい環境に身を置いて新しいことを始めてから何かが違う。生活全般が未知なこと、不慣れなことに囲われていて、常に自分の頭が刺激されている感覚がある。そうした生活を1週間ほど送ってみて、改めて自分の作品を見たときの印象がつまらないというものだったので、以前の状況、自分の状態には何か問題があったと思う。

それが何かは分からないが、自分が思うのは、無自覚のうちに直感の堂々巡りに陥ってしまっていたということだ。自分の直感はミットに向けてボールを投げるといった意図的、計画的なものではなくて、偶然視界に入ったゴミ箱に対し、今手元のゴミを投げれば確実に入るという期待からよく考えずに投げてしまうという思いつきのようなものだ。

それが起きたときには大抵入ってしまい、しかし狙って入れようとしたら1度も入らなくなるという経験から、自分の創作に対する態度はほとんど神託のようなものになっており、この偶然のお告げがうまくいくようにと念ずるほかにないという状況にある(こうした神がかり的な態度を反省し、計画的に創作を行おうとしても毎回失敗するので仕方ない)。

しかし考えてみると、自分の直感が生じるきっかけというのは基本的に自分の身の回りで起こっている。ゴミ箱にゴミが入ると思いつけるのは、そこにゴミ箱があるからだ。だから自分が身を置いている環境というのが、そのまま直感に影響を与えることになる。

しかしこういうこともできる。自分がゴミ箱のある部屋に住む、あるいはゴミ箱を通過する環境にあるからこそ、自分はゴミ箱にゴミを投げるという直感に「縛られている」。ゴミ箱がある環境に身を置いているからこそ、自分はゴミ箱にゴミを入れたら入るだろうという直感を抱きやすくなる。つまり、ゴミ箱を目にしやすい環境があるために、ゴミ箱にゴミが入ると直感する頻度が高くなる。

この頻度が問題である。確かにそれだけを見ればそれは面白い直感であるかもしれないが、それが頻繁に起こるとき、それはいずれ惰性となり、マンネリ化する。自分は記憶が悪いほうで思いついたことはすぐ忘れてしまうから、毎回面白いと思って採用する。しかし面白いと思えた直感を束にして改めてシラフのときに見直したとき、何だかどれも似通った感じがしてつまらなくなる。おそらくそれは異なる場所、異なる日時に似たような直感に導かれているからだ。

面白さのひとつの指標が刺激の多様さにあるとすれば、自分のような思いつきの作り手にとっては環境を大きく変えたほうが面白いアイデアを生み出しやすくなるにちがいない。何がきっかけで面白いアイデアが生まれるかは分からないので、計画的に設計する必要はおそらくないが、自分の環境の新奇性を常に高めておくというというのは意識しておいたほうがいいかもしれない。

このところ文章を書くことばかりか、文章自体に触れる機会が少なくなっている。思考は単純になり、代わりに曖昧な部分が増える。曖昧さが際立つと不安になる。

またしても文章に戻る決意をした。文を書く。書くことで自分が何を考えているのかが分かる。今の自分は何を考えているのか分からないから、書くことで自分を確かめられると思う。

自分は今、対人不安について考えている。

自分は数年前に比べれば随分と成長したように思えるが、人間嫌いの根深さはやはり大きく、どうしても通常の人間とは異なるということを認めなければならない。そしてそれを治すことはできない。

そのことに失望したというのが、今日考えたことである。自分はこのことをしばらく頭の中に留めた。

 

今の不安を書く。
昨日は死ぬほど具合が悪かった。頭痛と吐き気がした。水を飲んで寝た。朝起きて若干回復した。まだ調子が悪い。昨日は何もできなかった。今日は何かしようと思った。しかし結局何をすることもできなかった。この失われた時間に後悔がある。

創作の不安。面白いものが何も作れない。何も思いつかない。探究自体はどこまでもできる。しかしこれを完成させる未来が見えない。未だに終わりが見えない。その不安が大きい。

生活の不安。新しい生活を始める。多くの初めてのことに直面する。それらがうまくいくとは思えないという不安がある。

まだ手を付けていないという不安。これは生活の不安とも重なるが、問題が明らかであるのに、まだそれに着手していないことへの不安がある。これが結構大きい。やることが多い中で保留にしている問題群が、段々と膨大になって処理しきれなくなることへの不安がある。

停滞していることへの不安。自分は改善しようと努め、少しずつ何かを変えてきた。しかし自分の人生が好転しているとは思えない。段々と焦りが出てくる。関連して、自分の幼さに対する嫌悪がある。自分が人間として、年齢不相応に未熟であることと向き合わなければならない。

人間に対する不安。昔以上に、極力人と関わりたくないという思いが強くなっている。他人と分かり合えないという確信がある。もう誰とも分かり合えないと思う。そうでありながら、関わり続けなければならないという不安。

不安に対してどう向き合うか。まずは寝たほうがいい。それで解決しなければ外をおもいっきり走る。それでもダメならまたここに来る。