人生

やっていく

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自分の文章を見るといつも胸糞悪くなる。つまらないのではなく、読んでいて気分が悪くなる。しかしなぜだか分からない。

気持ち悪いのはその思考に至った過程が分からないからだ。読んでいて何も見えてこない。背景も、文脈も、何もかも分からない。正体が掴めないような感じがずっと続く。だから気持ち悪い。

少なくともこれが自分の印象だ。だが妙なことに、他の人から同様の意見をもらったことがない。そうなると自分の認識が歪んでいるとしか言いようがない。

言葉の正体が掴めない理由を自分はよく知っている。

自分は地に足のついた思考ができていない。思いつきを思いつくままにさせておくだけだ。脈略もなく思いつきはどんどん広がっていく。そうした統一性のない混沌状態が自分の正体を掴みにくくさせている。

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イライラすることが多く何をやってもうまくいかないと感じる。被害妄想的であり、同時に全部自分が悪いと思う。自分は平気だと言い聞かせてなかったことにする。あるいは自分の思考の偏りを自覚して一旦これで良しとする。しかし自分でも気づかぬうちにストレスをため込んでいる。それを自覚したのは最近のことで、このままではまずいことになると思う。

自分はほとんど休めていない。その原因の半分は自分にある。休むべき時間をオンラインゲームに費やしている。デイリー、ボス、クエスト、狩り、それらを毎週こなしている。その上創作を続けている。時間がないから焦って創作の量を増やそうとする。しかし始めて5分で限界を感じて諦める。平日はほとんど着手できていない。

今日ついに限界を感じて全てを放棄する日を設けた。とにかく休んだ。自分の頭をクリアな状態に戻した。何もせずだらだらと過ごした。それで冷静さを取り戻せた。はじめて自分が戻って来た気がした。

一旦冷静になって考えてみた。やはりオンラインゲームがすべての時間を奪っている。1つ1つの作業は大した時間にはならない。一番の問題はずっとその世界にだらだらと居続けることだ。そこには知り合いがいて話もできるがそうする時間があまりにも多い。この時間を削る必要がある。

とにかくやるべきことをやったらゲームを落とす。極力オンラインゲームに触れる時間を減らす。知り合いが必要とした時だけ戻る。それも余裕がある時だけにする。

自分の時間をことごとく奪っている多くの妥協に対して容赦なく切りかかる。自分主体の時間を持つことを第一に考える。

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久々に自分のセリフを見て面白くないと思ったので、ふたたび面白さについて考えることになった。面白いか面白くないかというのは気分にもよるが、大体いつも面白くないという印象を覚える。こんなことを考えても仕方がないが、今考えられることといえばこれくらいしかない。

面白くなかった点について自由に書く。解決は目指していない。

●はじめにキャラクターが面白くない。作中には面白いキャラクターがいくつか存在する。それに比べて今扱っているキャラクターはまったく面白くない。面白いキャラクターというのは面白要素を与えるという明確な方向付けがある。しかしこのキャラクターにはない。厳密にはあるものの深堀りされていない。同様にキャラが定まっていない登場人物が作中に多く存在し、これらが物語をつまらないものにしている。

●言葉が多すぎる。語らずに見せるということがまったくできていない。窮屈に感じる。言葉以外の演出に頼ることを恐れてはならない。

●思考の癖。計画を立てずに見切り発車で自由に物語を考える。直感の連鎖が始まれば勝手に面白くなる。しかしそうでない場合、面白さには再現性がない。

●言語化する必要はないが、自分がここで何をどう演出したいかというイメージを常に持つようにする。これが欠落したものは総じて面白くないから、面白くないと感じたらまずこの問題にあたってみる。

●自分は自分の作品をつまらないと思う。しかしそのつまらなさというのは現状の追認でしかない。この自覚がないためにつまらなさが不変であると思い込んでしまう。「つまらなさが不変である」と書くとまさかそんなわけがあるかと思ってしまうが、それを何かに書くわけでもなく、自分に対して明白にならないうちは「つまらなさが不変である」という前提が既に自分の意識を支配しているということに気づきにくくなる。現状追認をするだけでは物事は解決しない。全体像がつかめないまま、わからないままであってもとりあえず書いてみる。これは失敗しそうだなとか、面白くなさそうだなと思っても形にする。何であれ形になってしまえば自分に対して明白な答え合わせができる。

 

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昨日はエナジードリンクを飲んで、その前の日にも飲んでいた。ゲームの処理上の1つの難問があってそれをどうにかしようとした。結果何も解決できなかった。

そして今日はコーヒーを飲んだ。イライラする。急に眼が覚めたかと思えば急に眠くなる。飲むべきではなかった。

この前からゲームの処理がうまくいかず3日ほど無駄にした。処理に問題はないが正常に機能しない。何かが悪さをしているのは確かだが、何が原因かわからない。

しばらくして原因が分かった。処理の一番最後に余計な命令があった。それが処理の重複を生み、意図しない動作を引き起こしていた。たった1つの命令で3日も狂わされたことにイライラした。ただ今はそれ以上に眠気がひどい。

洗練された文章を書こうとなど見栄を張らないというルールは今も継続して守っている。そうすることは決して悪いことではないのだが、それだと文章が書けなくなる。書いては消してを繰り返し、5回目くらいになって飽きて投げ出す。そうやって捨てられた文章が山ほどある。

ひとまず問題が1つ解消されたことに満足した。今日自分が書けることはこれくらいしかない。

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自分のゲームの中に架空の乗り物が存在する。プレイヤーが数字を操作し、機械がそれを計算し目的地に向かう。10年前にこれを思いついた。作った当時はすごいと思ったが思い上がりもいいところだ。煩雑な処理が適切に機能した、ただそれだけのことだ。ややこしい操作をプレイヤーに押し付けているだけで、ゲーム体験としては最悪だった。

特にひどかったのは、これらの処理をすべてテキスト上で行っていたことだ。1つ目の数字をテキストの選択肢から選ばせる。2つ目、3つ目も同様に選ばせる。計算式を3択から選ばせる。完了。あとは選択に沿った演算処理。実に味気ない。しかし当時はこれが革新的だった。テキストとキャラクターを置くだけしかできなかった自分が、初めて変数処理に足を踏み入れた頃だったからだ。10年も1つのゲーム開発に携わっていると、こういう痛々しい自己満足の痕跡と遭遇することになる。そのたびにこんなゲームさっさと消えてしまえばいいと思う。

突然、この乗り物にUIをつけるという発想を得た。まったくなんの脈略もなく思いついた。スマホのアプリを開く感覚でこの機械を動かせないだろうかと考えたのだ。それでいくつか構想を考え、それらを実装した。

何も考えずに作ってみたがこれがうまくいった。明らかに前のものよりわかりやすい。処理は何も変えていない。変えたのはデザインだ。特別なことは何もしていない。やったことは単にアプリの真似事だ。機械を起動するとスプラッシュ画面が出る。そしてメインメニューが現れる。画面上部にはいくつかのタブがある。最初に選択されているタブを開くとすぐに操作が始まる。

実際に既存の真似事をしてみてよくわかった。すべての動作、演出をテキスト上で行うのは本当に、最悪だった。処理が問題なのではない。それをそのままプレイヤーに与えてしまうことが問題だった。過剰な情報は人をうんざりさせる。

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自分が書けなくなるのは書くことのハードルを勝手に上げているからだと思う。つまり良いものを書こうとしている。体裁を整えようとしたり、筋道だったことを書こうとしたり、背伸びしようとしたりして、最終的に捏造された思考が文章ということになる。

これを一旦やめ、思ったことをただ書いてみることにする。この前試しにやってみたらいつもより簡単に書けたので今回もうまくいくと思う。

最近本を読む習慣がよみがえった。こうなったのも実に20年ぶりで、この前手に取った本を読み進めていくうちに当時の記憶がよみがえった。あの頃はなぜ本に没入できていたのだろう。

まずはじめに書店に寄るという出来事があった。これも以前であればあり得ないことだったが、とにかく寄った。そこで興味の種が根付いた。その時は金がないからと自分に言い訳をして早々に立ち去ったが、何度か寄って眺めているうちに本を買うという選択が自分の意識に芽生えてきた。その時も去ってはまた来てうろうろしていた。

本を買う選択が自分の中に根付いた頃、これまで関心という形で漠然と意識によぎっては薄れていたものが「こういう本が欲しい/読みたい」という形で、自分の前にはっきりと現れてくるようになった。それは本が読みたいという思いが先行している場合もあるし、関心のほうから本を読むという手段を引き寄せることもある。

いずれにせよ、連想の道筋に本という選択肢が生まれたことは大きい。そこから更に別の連想に飛躍することを可能にする。それが少し面白い。

とりあえず飽きるまでは続ける。

 

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何を書いたらいいかわからないので現状について書く。自分は今これまでの生活環境とは一変し、いつでもどこでも常に何か新しいものに触れ続けている状況にある。この傾向は1年ほど前から続いていたが、今が一番自分が触れている情報量が多い。そういう状況になるよう自分が選択し行動したのだが、自分が情報に触れているというよりは、情報のほうが向こうから飛び込んでくるというほうが正しい。この新しさというのは世間の流行の最先端という意味ではなく、それらが存在することを知らなかった自分にとって目新しいという意味だ。大抵それらはジャンクであり意味のない(ありきたりな)ものだが、その膨大な量の情報が自分に飛び込んでくることが刺激的だった。

この多様な情報のジャンクに触れたことで自分のものの見方は変化した。自分がいかに視野が狭く、価値観が貧相で、小さい人間であるかを知った。要するに、自分の小さな頭の外側に世界があることを知った。自分が貧相なのは、自分の頭の中でしか生きてこなかったからだ。それが決して無駄とは思わないが、自分の中に変化が生まれにくく、だんだんと腐っていくのを実感していた。

未知の状況に身を置くことは結構なストレスだが、創造的なアイデアを思いつくにはいい環境だと言える。実際、自分の頭の中の原始的な思い付き以上に、外の世界は多様で進歩的なデザインにあふれている。それらの断片を自分の頭の中に持ち帰って消化することが、少なくとも自分の過去3年の停滞の中で得られたもの以上のものを与えてくれている。

しかし新しい環境に身を置くことで常に不安と隣り合わせになった。自分が自分であっていいという感覚が最近薄れてきている。以前のように自分を見失いがちになった。これは貧相な自分が豊かな環境を前にして感じる、よくある一過性の感情だと思いたい。しかしこの状況下に身を置いてもう3か月くらいになるが、自分自身に対する不安はいまだ拭えない。結局、過去の自分が足を引っ張っている。

今の自分の精神状態は明らかに快調に向かっているが、7,8年前に味わった精神の挫折を忘れてはいない。自分がここに生きている必然はないという確信は今でも残っている。どれだけ自分の取り巻く環境が「意味」や「価値」を声高に叫んでも、結局のところ自分にはほとんど何も響いてこない。だが一方で膨大な情報量が常に自分を圧倒しており、この両者が同時に起きているという状況が奇妙で、おかしく思える。