人生

やっていきましょう

長い間創作に触れていなくて、自分がどこまでやったのか、どう作ればいいのかを完全に忘れてしまった。今日はその確認作業から始まった。

前回作っていたのは二番目のボスだったが、こちらは8割ほど完成していた。あとはその微調整と前後のイベントを作ることが課題だった。

今日はボス戦前の演出を作ることにした。分岐Bの意図としては「面白ければ何でもいい」というもので、どうすればストーリーが面白くなるのかを考える必要があった。

結論から言えば、ストーリーを最低限維持したまま発想を飛躍させることが重要だ。発想の飛躍が最も重要だが、あまりに飛躍させると収拾がつかなくなる。イメージとしては家から駅まで行くために、徒歩や車に限らずヘリや人力車やスケートボードを使い、最短距離ではなくビルの中を突っ切っていったり道路を時速100kmで爆走したり目隠しをしながら歩くというやり方で、道中銀行強盗や軍事クーデターに遭遇したり古い知人からカルトやビジネスセミナーの勧誘をうけたりバスジャックに囚われたりするという方向に発想を広げていくべきであり、そもそも駅をこの世からなくすとか、外出の必然性の無さを自覚させるとか、一度定めたコンセプトに対する否定を行うべきではない(それはそれで面白い場合もあるが話が成立しなくなる。サッカーの試合でボールを無くすようなものだ)。

RPGの場合それはストーリーの流れになる。RPGといっても描き方は様々だが、自分の場合は与えられた目的に従ってキャラクターを動かしていくというものだ。たとえば檻に幽閉されていたらそこから出ようという動機をキャラクターに与える。プレイヤーはそれに従って脱獄を試みる。脱獄することでストーリーが展開する。そこで新たな事件があったり、キャラクターの最終目的を自覚させる出来事を与えたりして話を進めていく。

ここで自分が重視しているのは動機付けの正当性だ。檻の中にいて、なぜ脱獄する必要があるのかというもっともらしい理由がいる。例えば同じ囚人仲間が看守から非人道的な扱いを受けて「事故死」した、外で果たすべきことがある、あるいは突如襲撃したゾンビ集団によって意図せず解放されたなど、その状況が展開されていく上で違和感のない理由を用意する必要がある(それを否定すると物語が破綻する)。

分岐Aは極力その流れを重視していた。だが分岐Bはそうした約束を若干破綻させている。ストーリー展開のもっともらしさよりも面白さを重視しているからだ。だが面白いストーリーというのはすべてが破綻しているから面白いのではない。そこに存在しているストーリーの流れから大きく逸脱している(それでありながらストーリーが成立している)から面白いのである。

結局のところ分岐Bも最低限ストーリーを用意する必要がある。そのために分岐Bの難しさは特に際立っている。ストーリーとして説得力のあるものでありながらそこからの逸脱を全力で目指し、にも関わらず物語が破綻していないというものを目指しているからだ。だからひとつのシーンを完成させるために何日もかかることがある。

 

 

対人関係のストレスに耐性がなくなってきている。これは本当に問題のあることで、不快を感じた人間には安易に(どこまでも)軽蔑するようになっている。こうした感情の無自覚な肯定は自身を狭量にするしものの見方を偏らせる。

自分が最もストレスを感じる人種というのは人の話を聞かない人間だ。コミュニケーションを成立させようという気がなく、常に一方的な情報のやり取りになる。これにも様々いて、自分の注意や関心だけをただ話し続ける人間、不注意からそもそも話を聞いていない人間、相手の話をそのまま受け止められない不誠実な人間、そもそも話の理解力がない人間などがいる。

こちらの努力に対して、相手は伝えようとも、受け止めようともする努力をしていない。それだけならまだ許せるが、そのことを当然に思い相手にかけている負担に無自覚であるというのは我慢ならない。そんな人間が自分の周りには意外と多く、自分の要求する最低限のコミュニケーションとは全然当たり前のことではなかったのだと気づかされる。

愚痴はここまでにして、こうした不満を抱く自分の何が問題かを考えていく。確かにこれらの原因は相手にあると言っていい。自分の伝達力・咀嚼力、欠けた情報から背景を推測する能力が完璧であるとはいえないが、少なくとも互いの理解を調整しようとしていないのは常に他者の方だ(もし相手にその意図があれば自分は執念深く何時間も対話することができる)。だがそのことに感情的になっていて物事の見方が偏ってしまっていることが問題だ。

例えばある知り合いは人の話を聞かずに自分のことばかりを長々と話す。相手のレスポンスを無視してどんどん別の話題を広げる。初めは許せていたが、ずっとこの調子なのでイライラしてくる。この時自分が思ったのはこの人間には何を言っても無駄ということだ。どうせ人の話を聞かないし注意力がない。理解力もなければ判断力もない。価値観もおかしい。そして最終的に出した結論は、この人間はまったくの異常者で正常な認識力を持っていないということだ。

だがこの時の自分は、自身の発想が飛躍しているということに気づいていない。注意力がなく、理解力がなく、判断力がなく、人格もおかしいというのは、自分がこれまでの人生で出会ってきた「人の話を聞かない」人間たちの特徴だ。つまりこれらを不快な感情に任せて連想しているだけにすぎず、目の前の人間の何が問題かを正しく見られていない。少なくともこの人間には一定の理解力も判断力もある。人格が変わっているのは認めるがそれは本件と何も関係がない。要は不注意が目立つというだけの話だが、不快だという感情に任せるとこれだけ的外れな結論を導きやすくなる。

会話の不注意がこの人間の問題であったのに、いつのまにか理解の欠落という問題にすり替わっている。そういう色眼鏡でこの人間に対面したとき、この人は方々で話を聞いていないだろうからどうせ何もわかっていないだろうと思いがちになる。だがある時話した内容のことでその人の理解が正しく、自分の理解が正しくなかったことがあった。その人が別の人から教えられたと言っていたのを、自分は本当に正しいのかと疑ってしまっていた(というかどうせ間違いだろうと決めつけていた)。後から確認するとそれが妥当な意見であったことが分かった。その時初めて自分が偏った見方をしていることに気づいた。もし自分が感情に支配されていて、この人の言うことが何でも間違っていると思い込んでいたなら、自分はこの過ちに気づけなかっただろう。

不快の中にありながらも問題を正しくみつめようとする姿勢が大事だ。特にイラついている時は自分が咄嗟に感じたことについて受け止めつつも、その印象が本当に正しい判断を導いているのかを一度冷静になって考えたほうがいい。

今回は2つの思い込みがあった。まず人の話を聞かない人間は皆同じであるということ。話を聞かない人間といっても千差万別いる。それぞれに固有の性質、傾向、動機がある。先に挙げた例だけでも、それぞれの特徴を個別に持つ人もいれば、いくつか持つ人もいる。まったく別の理由から話を聞かない人もいるだろう。感情的になるとそれらを同じひとつの特徴でまとめがちになるが、それは誤りだと認める必要がある。

もうひとつは不注意なのだから何事も話を聞き漏らすということだ。この人間に相手と関心を共有するという視点が欠落しておりこちらの話に注意が向けられていないということは事実だが、これもまたすべてがそうであるとは限らない。この人が知り合いから聞いたという話については、少なくともこの人間に個人的な関心があることでちゃんと聞くことができていた。その事実を評価すべきである。事実に即して言えば、自分の話したいことだけは話して相手の話は聞かないことも多いが、自分の関心事については耳を傾けるし内容を記憶できる(こともある)。

こうした先入観を防ぐことは難しいが、抱いたことを自覚してそれが正しい判断かどうかを確認することはできる。不快になった時は常にこのことを忘れないようにしたい。

いつもの話になるが、相手にイラつくのは期待してしまっているからだ。自分はおそらく期待を裏切られた時に不快を感じている。だったら初めから話は通じないものと思っておけば良い。とはいえそこに開き直って不完全なコミュニケーションに不完全な対応をしようとするのではなく、相手に情報を伝え自分が理解しようとする姿勢は最低限貫き通す。そこで伝わらなければその人が悪いと諦めればいいし、伝わればこれ以上のことはない。

それからどうにもならない相手に対して無理をしない。何度も説得を試みるのは自分にその自負があるからだろうが、通じない相手というのは本当に通じないので時間の無駄でしかない。繰り返すがこれまで通り誠実な姿勢は貫く一方、深入りはしないというのが自分を守る上でも大事なことだろう。

 

人に説明するというのは難しい。自分の理解を相手が理解できるように工夫して伝えなければならないからだ。

そのためにはまず自分が正しく理解している必要がある。理解が曖昧なままだとうまく説明することができない。自分で要点を抑えておくということが第一に重要なことだ。

次にその理解を言葉に置き換える必要がある。イメージで何となく分かっているからといってその理解を言葉に置き換えられるわけではない。言葉になっていなければそれを知らない人は理解できない。

そして相手が理解できる言葉で話す必要がある。自分が理解の指標としている言葉と、相手が理解の指標としている言葉は必ずしも一致しない。言葉が自分の理解に適うものであることは特に重要だが、説明という点においては相手の理解に即したものであることもまた重要である(だから説明は難しい)。

これを口で説明となるともっと難しい。自分の理解が追えなくなる。口で説明することの難しさは、自分の思考の修正過程を必然に表出してしまうということだ。例えば自分はAについて説明しようとした。まずAについて説明できることを整理し思ったことを口に出した。その時自分は自分の説明に理解の不備があったことに気がついた。つい考えこんでしまい説明が途切れた。しばしの沈黙。自分は別の説明ができないかを考え始める。同時にこの沈黙が続くことで相手に不快な思いをさせているのではないかと考える。ここで自分は不完全な説明を続けるか、自分にはまだ分からないことを認めるか、別のアプローチを試みるか、混乱しかけている自分をなだめるか、様々な選択肢を同時に考えて脳の処理が追い付かなくなる。そして結局いずれにせよ中途半端な結果で終わる。

文章というのはこの複雑怪奇で入り混じった思考(連想)の過程を、説明の上では完全になかったことにできる。過程はどうあれ最終的にシンプルにまとめられた情報をそのまま提示できる。相手もそれだけを見れば済む。だから自分は文章での説明はあまり怖くない。いつでも振り返ることができて、いつでも修正できる。口で説明するとなると説明に至るまでの過程まで話すことになり、これが本当に苦しい。

人に説明することのハードルが多すぎる。自分は自分の説明を振り返って、毎回うまくいかなかったと思っている。自分の理解と言葉は不完全で、相手に認識に合わせられたものではない。口で説明するとあー、とかうーん、と言うだけでいつも当を得ない。説明の上では予め用意しておいた方針をブレさせないというのが一番堅実なやり方だが、用意したものに合わせるということがどうにも我慢できない。いつだってもっと創造的でありたいという欲求に負けて杜撰な仕上がりになる。

 

先日、自分は本来自己を持たないゾンビであるのに必死に社会にしがみついて自分が人間であるように擬態をする、といった話をした。自分が人を前にすると大体そうなっている。

だが実際、端から見てそれはどのようなものであるのかを理解することがなかった。自分の頭は軽いパニックで冷静さを欠いているから、他人から見てどんな感じなのかを知ることがなかった。

最近それを知る機会があった。例のよくわからない知人のことだ。その人はオンラインゲームの所持キャラクターごとに人格を切り分けるという趣味があった(病気を疑ったがどうやらそうでもない。強いて言えばその種のこだわりか。自分はそういうロールプレイだと思って受け入れることにした)。メインの人格は(いくつかの点に目を瞑れば)比較的普通だが、サブの人格が異質なものだった。

その人格の特徴として顕れているものはとにかくすべてを敬語で話すという一点のみだ。これだけなら何も問題ないように見えるが、実は顕れていない方に問題がある。

つまり、そのキャラクターの人格というものが見えてこない。その人格が何を好み、何を考え、どんな個性があるのかまったくわからない。「機械的」という印象すら漂白されている。そこには「人間嫌い」といった不安も感じられない。固有の視点というものを持たず、言わず、見えてくるのは動機不明のロールプレイに徹するという当人の異常なこだわり。

自分は毎回会うたびに不安を抱く。いつもメインで来てほしいと思う。だがこの不安は身に覚えがある。これは自分自身だ。自分がこの人格を恐れているのは、まさに自分がこの人格と同じようなことをしているからだ。自分の主張を避け、当たり障りのないことを適当に言う。敬語。そうやって自分を押し殺して関わっている時、仮にそこにそうしなければならない必然があったにしても、事情を知らない人間からすれば同じように映っている。

自分がこの正体不明の人格と異なる点があるとすれば、自分の意見を持ち、考えを持ち、必要があればそれを相手に伝えられるということだ。それはそうすることを好んでいるということでもあるし、それは中身のある人格の一つだといえる。

このサブキャラクターに会ってから(そしてこのキャラクターを別人格として扱うことを強要されてから)、自分は自分の浅はかな擬態を客観的な視点で眺めることができるようになった。以来自分は自分というものを出していった方が(合う合わないは別として)相手に自分という存在を伝えることができ、それが結果として他者との関係をより円滑にすることに繋がると思った。

当たり前のことを当たり前に受け入れられている人間が怖い。そのことを不思議だとも不快とも思わず、自明であるというただ一点だけで受け入れられている人間がどこにでもいる。なぜそんなことができるのか、それで安心できるのか自分には理解できない。

しかし考えてみるとそんな人間が大半であることに気がつく。誰もが自分の置かれている状況の異質さを自覚しようとするわけではない。何かのはずみで自明が崩れ、心の安定について再び考え直さなければいけなくなった人間が向き合うことになる。自分でさえ、そんな出来事から月日が経って自明を自明として受け入れられる時がある。それを怖いと思うのは未だに治っていないのだが。

自分には彼らこそ異常に見えるが、むしろ無自覚であることを自覚しようとする方が異常だ。出された食事に毒が入っているかどうか、自分の普段の歩き方をどうすべきか、自分の心臓の動きに問題はないか、寝ている時に誰かに喉を切られるのではないかと常に考えること、考え続けねばならない状況。それがずっと続いているのは異常だ。心はあらゆる無自覚によって守られているといえる。そうでなければこの世界の膨大な情報量を前に正気でいられるはずがない。

自分の場合は主に価値の自明について問題にしている(その他の大半の問題は"自明に"受け入れている)。自然に共有されている慣習、文化、言葉遣い、趣味、意見、観念。それらを当然に語る人間に自分は不安を抱く。それは軽蔑や嫉妬といった感情ではなく、正体が分からないという意味での恐れに近い。

自分が出会ってきた人間のほとんどが、自分を否定しなければならないとは思っていない。したがって自分を肯定できるものを自明に肯定している。自分の関心はそこにある。なぜ人は自明に自己を肯定できるのか。もしそうならば、なぜ自分は自明に自己を肯定できていないのか。

おそらく自分は自己を否定せざるを得なかった自己を肯定しようとした。自分が自己否定しかできないのであればそれが自分なのだと思い込もうとした。そうしたさなか、自分をそのまま受け入れられている大勢の人間たちに遭遇した。またしても己の自明さが崩れることになった。

自明に生きる人間は文句を言われる筋合いがない。彼らに対する恐れや不快感というのは、彼らの悪意にではなくその無自覚さにある。問題は自分の内面が彼らの自明に対して脆弱であるということ。合わない価値観なら離れればよく、そこで己の価値観を強化していけばいいのだが、そうすることができない自分の弱さがある(これは小さい頃からずっとそうしてきたことが原因だ。本来は自己が存在しないゾンビのような存在であるのに、それを偽って人間に擬態しなければ社会に適応できないという強迫観念があった。こうして自分は自分自身であろうとする一方で、所属する集団ならどこであれその集団で主流の文化に迎合した。そして自分はその集団にいなければ自分が存在しないということに悩み、途中で合わないと思っても次第に依存していくことになる)。

結局のところ自分のこころは自分で養っていくしかない(自分の役割には代わりがいても、誰かが自分の代わりになることはできない)。自分の置かれた内的状況は、自分が向き合って対処するしかない。

自分は集団(他者)と個人、どちらに重きを置きたいのか。やはり個人だろう。他人の長話を黙って頷いて傾聴し続けるという苦痛をもう味わいたくない。おそらくそれが自分の本心だ。人付き合いよりも自分の考えと向き合い続けていた方が精神的に安定する。そうであるならば、自分はそうすることを自分に許してもいいと思う。

 

ブラウンノイズという動画がyoutubeでおすすめされてきた。聞いてみると高速道路や列車の音に近い環境音がずっと流れていた。外界の音を遮断し作業に集中できる音だ。リラックスできてずっと聞いていられる。

ホワイトノイズやピンクノイズと言われるものもあるが、刺さるような音で落ち着かない。ブラウンノイズは何時間でも聴いていられる音だ。

最近の自分は物事にあまり集中できていない。何か取り組もうとしても面倒だとか乗り気じゃないといったことに振り回されている。そうして何もやらないでいて、気が付いたら何日も経っていた。

結局のところ自分は環境に振り回されている。やらない理由が外にあれば自分は簡単に打ち負かされる。そうではなく、いや仮にそうだとすれば、自分は自分の集中が持続する環境を自ら構築していく必要がある。

別にブラウンノイズに限ったことではないが、環境というものは与えられているものだけがすべてではない。環境は自分に適する形で新たに作っていくことができる。そのひとつがこれであり、もし他に何か使えるものがあるなら積極的に使っていきたい。

 

ほとんど2週間ぶりにモンスターエナジーを飲んだが想像以上の効果があった。つまらないやり取りで埋め尽くされていたつまらないストーリーが根本から修正され、明らかに面白くなった。

イデアが次々と湧いてきて勝手に形になった。連想はまったくのでたらめではなく、ちゃんと意味が通じて面白いものになった。自分が見て楽しめているというのが何よりの証拠だ。

今回買ったのは新商品の「Ultra Violet」。炭酸がなく味はグレープに寄せた人工的な味だった(自分はそれをアメリカのお菓子を食べた時の味だと感じた。ねるねるねるねの味だという人もいた)。しかし効果はまったく同じで、飲んでしばらくしたら集中力が増してきた。日を置いたのも良かっただろう。

次に作る場面は町から外に出る際のイベント、その後ボス戦に至るまでのつなぎの部分だ。何も考えずに作ろうとすると分岐Aのようになってしまう。できる限り適当に、しかしスムーズに分かりやすく事が運ぶようにしたい。