人生

やっていきましょう

自分勝手な人間に対し、今までよくそれで生きて来られたなという思いがある。しかしその人は実際に生きているのだし、実際生きていけるのだろう。厳密にはそれが通用する環境とそうでない環境があるのだろうが、周りとの協調が常にマストであると考えるのは少し違っていたかもしれない。

ある種の人間は周囲の存在と価値観を異にしていながら、そのことに無自覚で自分を改めようと決して思わない。そのためにいつも周囲との衝突が絶えず周りから孤立しているが、本人はそれを自身の問題だとは思わない。

自分の周りにはなぜかそういう人間が集まってくる。そして彼らに振り回されて多大なストレスを抱えることになる。自分は彼らの社会性の無さに辟易する。だがその裏で、彼らに対する憧れと強い嫉妬心を抱いている自分がいる。

彼らは健全な社会性を持ち周囲の人間と価値観を擦り合わせていこうとする、いわゆる普通の人間が抱いていない独自の感性がある。それが必ずしも自分の価値観に合うものではないとはいえ、どこへ行っても紋切り型の言説でうんざりしていた自分にとって、彼らとの関わりは強く好奇心を刺激するものだった。

だがそれが強固に維持されてきたのは天性の無自覚さ、他者や集団に対する想像力のなさ、思い込みの強さといった歪みにあると感じている。彼らには自分を変えようとする動機がなかった。そこには本人だけの強い自我があった。

自分が彼らに嫉妬するのは、自分がそうである道を選べなかったからだ。おそらく自分の感性はかなり彼らの方に寄っていると思うが、人生の早い段階で衝突を繰り返し、それが問題であると気づいてしまった。自分は集団にとっての異物であるから、集団に適応するために自分を偽り彼らの感性に呼応する必要があった。しかしそれが理由で言葉が出なくなり、自分は長い間人と話せなかった。

この痛ましい適応を経ずに済んでいて、自分が正しく相手が間違っているという素朴な二元論に納得することができる才能に自分は羨望する。おそらく彼らも周囲との不適応から散々嫌な目を味わって来ていると思う。しかしそれに対して導き出した答えが「自分(の価値観の方)が正しい」であることがどれほど恵まれたことであるか本人は分かっていない。

彼らと関わる時、自分は常にこの嫉妬の色眼鏡で見ていることに自覚的であるべきだろう。彼らの無能や失敗にイライラするのは、実はそれらに対してではなく、それらを問題にせずに済んでいる彼らの余裕に対してであるかもしれない。自分と同じ目に遭わなければ理不尽だともし自分が考えてしまっているなら、おそらく自分の判断は偏ったものになっている。

 

モンスターハンター ワールドをDLC付きで買った。配信者が動画で戦っているのを見て欲しくなった。丁度カプコンのセールがあったので購入した。大体2500円だった。

モンハンというと自分が最後に遊んだのは3DSのクロスだった記憶がある。だがほとんど覚えておらず、自分の中でモンハンと言えば2ndG(psp)と3(wiiU)の2作だった。

自分はずっとヘビィボウガンライトボウガンを使っていた。ただ実際はそればかりでなく、大剣や太刀やハンマーなど、結構幅広く遊んでいたような気がした。その中で狩猟笛と弓だけは使うことがなかった。最近他のゲームでも弓に関心のある自分は、ワールドは弓で行こうと考えた(狩猟笛はやはり自分には難しいと思った)。

何世代も後のモンハンに触れてみてまず思ったのが、2ndGのモンハンとはまったく別ものだということだ。クラッチクローなるギミックが追加され、モンスターに直接乗り込むことができる。これがあることで大型モンスターの周りをうろうろするしかなかった狩りに躍動感が生まれることになった。

武器自体のアクションも変わっていた。弓といえば強化ビンをつけて照準を合わせるだけの武器だったのが、強力な一撃が追加されていたり攻撃後に横ステップができるようになっていたりと、弓がより機動性のある武器へと変容していた。

また上方に矢を打って石を落とさせる技があり、複数の矢を横に拡散して攻撃する技が増えていたりと、攻撃の幅が広がっている。何よりそれらがコンボ技として機能しているという点が評価できる。弓という武器の持つ力を底上げしている。

触ってまだ少ししか経っていないが個人的には面白い武器だと思う。しばらくはこのまま弓を使っていきたい。

夢という言葉が自分は苦手というか嫌いで、劣等感の塊である自分はこの話題を極力避けたがる傾向にあった。夢というのは呪いであり、うまく行けば維持しなければならない枷として、破れた後は執着として生涯心に残り続ける。だから夢を持つということは愚かだと考えてきた。

正直に言えば自分が夢を持ってひたむきに進み、それが破れてしまうことが怖かった。またその過程で自分の無能が暴かれることを恐れた。こうした感情があって自分は夢を持たないようにしつつも、夢のある人間に憧れと嫉妬を同時に抱いてきた。夢を持つように急き立てる人々の影響もあって、自分の人生は夢という漠然とした虚構に侵食されていって方向を見失った。

今でも夢に煩わされた時期を思い出すと嫌な記憶が蘇ってくる。存在しない幻想に翻弄されていた時期も辛かったが、その中で自分には本当にやりたいことがないということ、それを自分で誤魔化していたことに正面から向き合った時もまた辛かった。

ただ最近は夢というものが些細な問題であるように思えてきた。以前の自分は夢といえば何か強い発願の末に大いなる目標を設定し、それが果たされた先の未来に自分の本当の姿に出会えるものだと思っていた。言い換えれば夢が果たされるまでの自分は何者でもなく、夢が果たされなければ存在している意味を失うと思っていた。

この妄想が短絡的であったことに気づくのには随分と時間がかかった。おそらくそれが最も劇的で、芸術的な意欲の表出であることは理解できる。だがそれはひとつの類型でしかない。夢というのは自分の生涯を賭けて取り組むべき課題に対し、他者をも巻き込んで果たされる壮大な計画である必要は必ずしもない。それはたった今自分がやりたいことでも構わないのだった。

こう考えられるのはやはり人によると思う。自分の場合、周りの環境に合わせるために自分を抑圧し続けてきたという経緯があった。そしてその限界に達したとき、夢なる虚構が自分を抑圧から救い出してくれると錯覚した。しかし自ら抑圧し続けてきたこの自己こそがまさしく本当の自己であり、その心的状況からは意欲が生まれにくいという現状があった。それを誤魔化して夢を意欲をと独り相撲を取っていたのが自分だった。

だから自分には夢という虚構を無理やり自分に信じ込ませるよりも、今自分がやりたいと思っていることをまずはやらせた方がより有意義だと感じる。結局そうしてやり続けてきたことが大きくなり、動機と呼ぶべきものになるのだ。

夢というと人に認められようとしたり、抑圧された自身の復讐を果たしたいだとか、そうした露骨な野心を果たす方向に解釈しがちになる。それもまたひとつの夢の形だが、やはり自分には合わないと感じた。結局のところ本心で自分は自身の完全を求めているし、他者の賞賛以上に自らの納得を求めている。

この気づきを自身の核とするべきだ。自分は自分の感性に従いやりたいことをやる。実際やってみて何らかの形に残す。それが自分にとって満足を感じさせるならまたやるだろうし、そうでなければやらなくなる。そうした自然の流れに身を任せてふと自分を振り返ってみたときに、残っているものが自分のやりたいことだ。夢だのどうだのと考えるのはそれからで良い。

言葉というものは曖昧なものを曖昧なままにしておくことを苦手とする。自分がいま自身の関心についてあれこれ書いたとしたら、その形式はおそらく断定的なものになる。自分はまだ自分に自信が持てないから、今こうしたいああしたいと書くことは避けるが、自分の態度として自分の関心にはいつでも素直に従えるようにしたい。結局はそうすることが、かつて自分が夢と呼んでいたものに近づくことになる。

 

最近の自分は、言葉にするならこの程度で良いだろうという妥協が上手くなったように思う。かつてのような強迫はなくなり、手軽な表現で簡単に済ませることに満足している。

ある意味自分は賢くなったのだろう。どんな言葉を使い、どの程度の情報量で話をすれば相手の理解が得られるのかが経験から分かってきた。だかは他人や失敗を必要以上に恐れないし、自身の改善を底なしに求めようとしない。

要するにあの異常な言語への衝動は、不安を原動力にしていた。自分は何も分からず何もできずという世界観の中で、僅な精神の安定を得るためにあらゆることが言語で説明され、自分がそれを追えている必要があった。ブログはまさにこのような動機から始まった。しかし事実を言えば、世界はそこまで全力をかけて言葉に置き換えて理解しなければ崩壊する不安定なものではないし、ある程度雑な理解で動いてもどうにか回っていく。

それに気づかせてくれたのは他者だった。自分が誰とも関わらなかった時は自分こそがすべての基準だった。だから自分の内的不安というものが直接世界理解に反映され、世の中に適応するためには何から何まで言葉によって整理され、自分が他者に向けてどこまでも説明できなければならなかった。しかし他者と関わる数が増えていくにつれ、その誰もが自分のような強迫を抱いているわけでなく、大体の面である程度言葉に適当なまま生きているということが分かってきた。そのことに彼らは負い目を感じているわけでもなく、不安を抱いているわけでもない。

こうした他者を目の当たりにして、自分はどこまでも言葉を掘り下げる動機を失った。上手く手を抜くようになった。確かにそれで楽になった。だがかつてのような文章を、今は書くことができない。

 

この1ヶ月はほとんどゲームの開発を行わなかった。特に現実が忙しかったせいでもある。

もう9年近くにもなるが、今年こそは5章を終わらせるという覚悟で臨む。

今日はダッシュ機能の修正を行った。これまで便宜上キーを押している間は速度4、そうでないかスタミナが尽きている場合は速度3に定めていた。しかしこれでは移動速度を減退させるイベントが成立し得ないことに気づいた。

自分の想定では様々なデバフや効果の計算を済ませた後、最終的な速度を決定するイベントを並列的に行うつもりだった。しかしそこまで複雑に考える必要はなかった。標準速度3に対してダッシュ時が4である場合、デバフの際はそれぞれ-1をするという条件を付け加えるだけで良かった。つまり標準時は速度2、ダッシュ時は速度3にする。

これでボス前のイベントが半分完成した。残りは明日作る。

習慣ということについてこれまでとは違った側面から考えたことがある。習慣は恐怖と不安を打ち消す。はじめは何事も恐ろしく無理だと思い込んでいたものが、何度も繰り返すうちに日常の出来事になる。これは自分自身が能力的に状況に適応したからということもある。しかし自分が思うのは、習慣化されたことでその行動が及ぶ範囲が見えてきたこと、その結果心理的な安定が得られたことが大きいということだ。

自分は今なにも考えずpcの電源を立ち上げ、ブログを開き、なんの気なしに文章を書いている。それが自分にとっての習慣化された日常だからだ。しかしpcに初めて触れた時の自分、このブログに初めて登録した時の自分は不安しかなかった。自分のちょっとした行動で、すべてが一気に台無しになるかもしれないと考えたからだ。新しいゲームを始めたときもそうだったし、自分の知らなかった(忘れていた)ことを学ぶ時も同じ感情に包まれていた。

こう考えてしまうのは自分の弱さだろう。自分は自分の行動が行き及ぶ範囲とその影響について考えられない時、かなり深刻に(時には非現実的に)見積もりすぎることがある。これが自分の傾向なのだ。だから何も行動できない。すべての行動が恐ろしく感じる。

しかし行動を何度も繰り返して習慣づけてしまうと、自分の思った通りにはほとんどならないことに気づいてくる。外を歩いて散歩していると後ろ指をさされたり、とんでもない事件に巻き込まれたり、スナイパーにつけ狙われることもないということが滅多に起こらないということがわかってくる。それは自分がこれまで何千何万と外に出て近所の安全を体感してきたからだ(ゼロとは言えないが起こる可能性は限りなく低い)。

行動の行き及ぶ範囲と影響について、これは起こりやすくこれは起こりにくいという整理が自分の中でなされてくる。そして試行を繰り返すうちに自分の予測と結果が段々とあってくるようになる。そうなると次もまたこうなるだろうと考えて、やっぱりそうなったと思うようになる。それができる領域を広げていくと、自分はいつだってそこに行けるのだろうという思いがする。

自分の中で【料理】というものが不安の対象になっている。とにかく台所に立つのが恐ろしく、焦がしてしまうのではないか、具材を変に切ってしまうのではないか、配分を間違えて味を悪くしてしまうのではないかということを考えているうちに、自分はもう料理はするまいと思って結局はコンビニ弁当や冷凍食品を買ってしまう。

そう思うのは自分が料理をしてこなかったからだ。だが自分はこうも思えている。料理をしていくうちに、自分の行動が行き及ぶ範囲と影響が見えてくるだろう。そしてそのレンジには自分が今思っている以上の許容範囲があり、そこに至ることは簡単なことだと。なぜそう思えるのかというと、知識として人が料理をすることに対する事前情報があったからということもあるが、自分がこれまでやってきた様々な行動の結果がそうだったからということが大きい。

おそらく自分は目隠しをしながら、いきなり135度右の方向にある的の中心を正確に射抜くということをやらなければいけないと感じている。だが実際にはいきなりそこまでする必要が無い。目隠しはつけなくてもよく、的の前まで歩いていっていい。おそらく料理の許容範囲というのもそこまである。

とはいえそれがすべてだということでもない。許容範囲があるということと、クリティカルなレンジがあるということは同一ではない。複雑かつ難解な条件を満たしていなければ出せないものがある。自分の創作では常にそれを目指している。だがそれがあらゆる方面について常に絶対達成できなければならないということはない。自分は自分を追い込みすぎて許容範囲の広さに盲目になっていることがある。

自分はもっと適当にやっていい。おそらく個人だとそれができる。これが他人を巻き込むとなると無駄な完璧主義が芽生えてくる。他人に迷惑をかけられないというのが至上の鉄則になっている。自分の失敗は相手の迷惑になる。しかし失敗することでしか人は多くを学び得ない。自分が仮に上司の立場にあるとしたらこう言うだろう。失敗したこと自体は大した問題ではない。問題なのは失敗を回避しようとしないこと、失敗から何かを学ぼうとしないことだ。

このことを自分自身にも言い聞かせる必要がある。経験によって自分の行動の行き及ぶ範囲と影響が分かってくる。それまでは何度も失敗していい。ただし、時にはそれが通用しないこともある。

例えば危険な薬品を予め定められた手順なしに用いて実験を行ったり、命綱なしにはるか上空の鉄柱を歩くとなれば失敗は致命的となる。そうした時には経験ではなく知識によって事態の深刻さを評価しておくことが重要になる。

もしそうでないならばそこにはいくつかの許容範囲があるはずだ。その範囲に自分の結果が至ることを許すことが大事だと思う。満点とは言えないがそこそこ良いことだってある。それを受け入れることは妥協であり、自分の中の進歩を停滞させる。しかし完璧しか認めずに自分を追い込んだ結果が挫折と燃え尽きだとしたら、妥協というのは自分を生かす知恵でもある。自分は完璧を追求したまま灰になる道もあったが、自分は自分の不完全さを許すことで生きながらえた。

すべてを同じように完璧に目指すことはできない。自分という限られた資源を使ってどこに時間と労力を注いでいくか、それを考えなければならない。ある分野には全力に近いものが注げるだろう。しかしその分他の部分は手を抜かなければならない。さもなければ自分が持たないだろう。

以前自分が予言していたことが現実になっている。色んなことに手を出してから創作に手を付けられる時間がない。このことを反省する必要がある。

ゲームにしても何にしても人と何かをすることが以前より増えてきている。それができていなかった頃に比べれば多少は人間関係が豊かになったと思うが、惰性や場当たり的に過ごしてしまうとすぐにそちらの方に引っ張られてしまう。こうしたことに気を取られていて、気が付いたら創作にまったく手をつけていないということがある。

予言に加えて自らに忠告したことを覚えている。とにかく自分の時間を作ること。他人に振り回されて自分の時間を減らさないこと。改めてその言葉を見てその重要性を感じる。創作をしなくなったという点で創作活動は既に役目を終えていると思うが、未完のまま放り出された十年の遺物をこのまま放置しておくわけにもいかない。

行き詰って投げ出したわけではないのだからできないことはない。とにかく行動を習慣化することが大事だろう。自分がオンラインゲームでわざわざデイリークエストを毎日こなしている事実を思い返すがいい。人は習慣になってしまえば重い腰を上げずともやれてしまう。また同時にやらない習慣が一度確立してしまうと、そこから抜け出すことが難しくなるともいえる。