人生

やっていく

知人が素朴な冷笑を行っていたのを興味深いと感じた。冷笑とは無縁そうな人間だったからだ。本人は得意げにその対象の粗を間接的に小ばかにしていた。それを聞いて自分は、確かにそうかもと相手に納得してみせた。こういう書き方も冷笑的なのかもしれないが。

随分前から冷笑という態度が一般化したと感じる。何かを小ばかにするものとよく遭遇する。この状況自体は面白いが、実際その冷笑は言っている本人(あるいは同様の価値観を有する人間)が満足する(させる)ために存在する。それはあまり面白くない。

自分は冷笑が面白くあってほしいと考える人間だから、自己満足だけの冷笑が蔓延しているのは苦しいものがある。何度も言っているが、冷笑はその冷笑を自分に向けて耐えうる人間だけが発するべきだ。そうでなければ面白くならない。創作に携わる人間が他の創作をばかにするなら、冷笑の数だけ自分の創作もばかにする必要がある。そこから逃げているなら冷笑などすべきではない。

しかしこれらは理想でしかない。結局のところ他人をばかにするというのはたやすく自尊心を得られる行為なので、これからも拡大していくし、一般化はさらに進んでいく。冷笑はもはや周回遅れだが廃れることはない。だからどうということもない。

数ヶ月前から多忙になり創作の時間がほとんどなくなったが、不思議なことに進捗自体はあまり変わっていない。これまでは大半が迷いと不満と断念、稀に前進するという感じだったが、今は迷いや不満に掻き乱される時間がほとんどない。

触れられる時間が少ないからこそ、迷いに充てる時間を全てカットしている。これまでは今日はうまくいかないから他のことをやろうと思い、その日は別のことをして創作に触れないことがあった。これがただ他のやるべきことに置き換わっただけだ。実際うまくいくことが少ないのだから、むしろ多忙によって一旦離れられるほうが都合がいい。結果として、うまくいかない時の現実逃避先として得られるものは同じだからだ。

他者に対する明らかに過剰な献身がある。とにかく相手の立場、都合、考えに理解を示す。同意はしなくとも、可能な限り歩み寄る。この一方的な献身がしばらく続いてから、相手がまったくこちらに歩み寄っていないことに気づく。それで裏切られたと感じ、これまでの徒労に対する怒りや失望が湧き起こる。

自分の他者に対する憎しみは、ほぼこの1点に由来する。勝手に自分が他者にとって都合の良い人間になろうとして、勝手に他者が自分と同程度に配慮してくれると期待して、勝手に裏切られたと感じ、勝手に怒りに駆られている。

相手のペースに過剰に合わせようとすることに問題がある。また、そうしなければならないと思うことに問題がある。相手は自分に対してそのようにすることを期待していないし、またそうする人間がいたらそれは異常だ。

自分が自己犠牲的かつ強迫的に相手に適応しようとするのは、これまでそうやって難局を乗り越えて来たからだが、実のところ難局は自分の内面にしか存在せず、脆弱な自分の内面を守るためにただ不安が暴走しただけに過ぎない。その事実を客観視できなければ、自分はまた同じことを繰り返すだろう。

かと言って、いきなり相手を突き放す必要はない。自分がまず実践すべきなのは、自分を優先するということだ。自己犠牲で無理はしない。自分の都合を第一に考える。ただそれだけで、おそらく自分の問題は緩和されるだろう。

何かを書こうとして既に3回は書き直している。今は他の何かを書こうとして失敗している。

実際書くことは山ほどある。しかしどれを取っても結局は愚痴になる。過去の執着や最近起きた不満が言葉に表れる。

それらを言葉にしたところで何になるのか。言ったところで仕方がない。どれも自分が変えられる問題ではない。だから書く意味がない。

書く意味がないから書かないのか。しかしかつての自分は思いつく限りのことを書いてきた。意味がどうということはあまり考えていなかった。この差は何なのか。

結局はつまらないプライドに翻弄されている。下手なことは書けないだとか、愚痴をひけらかすのは恥だとか、そうやって高尚ぶる度に自分の喉を締めることになる。

それをやめて、まずはもっと自由に、思いつくままに書く。これからはそうする。しばらく書いてこなかったから、リハビリのつもりで頑張る。

最近生きているのが苦しいと感じた。辛いではなく、苦しいという感じがした。疲労からではなく、もっと精神的な虚無感から来ている。

自分はずっと何をしているのか分からない。生きていることに意味づけができない。否定も肯定もできない。ただ宙吊りの浮遊感だけがある。

自分が生きていることに価値づけができない。そんなことを考えていたらいつしか寝ていた。

その後不快な夢を見た。自分の住んでいる家をお笑い芸人たちのシェアハウスにするから出て行ってくれと言うのだった。そんな馬鹿な話があるかと怒ったら、なぜか自分の家族、親戚、かつての同級生が現れてきて、さすがにここは退くのが筋だろうとか、こんな家出ればいいじゃないか、また探せばいいじゃないかと宥めてきた。自分は正当な権利があってここにいるのに、なぜか自分だけが物分かりの悪い人間として扱われ始めた。後から来た芸人たちは自分の存在を鬱陶しそうに眺めていたり、自分のことなんか構わずにお笑いの未来の話で盛り上がっていた。それで頭に血が昇って思い切り周りの人間を怒鳴りつけてやったら、不快なアラームがどこからか鳴り始めて、それが無性に腹が立たしく感じて、爆発しかけていたら目が覚めた。

目覚めてからもしばらく怒りが収まらなかった。

 

 

 

自分の言葉が自分のものでないと思う。自分が書いたことには間違いないがその実感がない。そもそも自分の言葉というものをよく理解していない。言葉が馴染むとかどう運んでいくかとか、どういう語彙が思いつきやすく、扱いやすいかとか、そういう感覚的な愛着があるかどうかの話だ。とにかく、そういう感覚が今の自分に無いということだけは分かっている。

真っ先に思い当たるのは自己への過大評価だ。自分は自分が思うことを言葉にできて当たり前だと思っているが、実際はそれほどの能力はない。自分には語彙も、見識も、知恵も、思考と呼べるものもない。これは謙遜ではなく事実だ。それゆえ自分の内側から言葉が出なくて当然だと思う。しかしそうだと認めたがらない。その心が無意識に「言葉が自分のものでない」などという都合のいい問題に視点をすり替えているだけかもしれない。

実際、このことには心当たりがある。しかし別の問題も関わっていると思う。背伸びするわけでもなく、ただ単純に言葉を書こうと思っている時でさえ、自分のものでない気がしている。今こうしてここに書いている内容も、半分は自分のものだと思っているが、半分は別のものだと思っている。もちろん自分のものに違いはないが、この書き手の正体を自分は掴めない。

もしかしたら、ここに書かれている言葉の数々が、そのまま書き手の正体を暴いているのかもしれない。つまり自分は自己を持たない不安定な存在であり、時に背伸びをし、時に自嘲し、言葉を執拗に推敲したかと思えば投げやりになり、正直な自分を表現しようとする一方で体裁を気にして自己を偽る。オープンにしたかと思えばクローズして、書き始めたかと思えば途中で投げ出している。要するに、自分はいつでも変化し続けている。それほど不安定な自己であるということだ。

自分が常に自分の言葉に違和感を覚えるのはこういうことではないのか。違和感に対する執着も、脆弱で不安定で自己同一性が拡散している自分の変容に対する必死の抵抗と見れば多少の納得はいく。自分はいま、自分だと安心して認められる自分が存在していない状態だといえる。それはこれまでの絶え間ない自己否定の産物だということはよくわかっている。

解決を考えるなら、自分の認めたがらない事実をひとつひとつ受け入れていく他にない。自分はこれまでそうした事実を暴き立てる形で自分に突きつけてきたが、もちろんそれが必要なことだったにせよ、結果としてそれだけでは不十分だった。受容するということが大事なのだが、これがなかなか難しい。

 

自分の頭の中の不完全な思考をそのまま表に出すと大抵後悔する。結局何が言いたいのか相手には分からないし、自分にもよく分からない。分からないが方向は正しいという直感があり、後付けで理屈をこねていくうちに輪郭が現れてきて、しばらくしてからなぜそれが正しいのか(あるいは何が正しくなかったのか)が理解できる。しかしその「しばらく」がなければ思考は壊れていて、無いに等しい。

本を棚にしまうように答えをいくつもストックしていて、それを容易に引き出せる人間を羨ましく思う。自分の頭の中は書きかけのメモで溢れていて、どこに何があるのか全くわからない。どのメモを拾えるかはまったくの運であり、紛失、忘却と隣り合わせである。そうした思考のギャンブルを経ずに人生をコントロール下に置いている人間がいる。彼らを見習いたい