自分の言葉が自分のものでないと思う。自分が書いたことには間違いないがその実感がない。そもそも自分の言葉というものをよく理解していない。言葉が馴染むとかどう運んでいくかとか、どういう語彙が思いつきやすく、扱いやすいかとか、そういう感覚的な愛着があるかどうかの話だ。とにかく、そういう感覚が今の自分に無いということだけは分かっている。
真っ先に思い当たるのは自己への過大評価だ。自分は自分が思うことを言葉にできて当たり前だと思っているが、実際はそれほどの能力はない。自分には語彙も、見識も、知恵も、思考と呼べるものもない。これは謙遜ではなく事実だ。それゆえ自分の内側から言葉が出なくて当然だと思う。しかしそうだと認めたがらない。その心が無意識に「言葉が自分のものでない」などという都合のいい問題に視点をすり替えているだけかもしれない。
実際、このことには心当たりがある。しかし別の問題も関わっていると思う。背伸びするわけでもなく、ただ単純に言葉を書こうと思っている時でさえ、自分のものでない気がしている。今こうしてここに書いている内容も、半分は自分のものだと思っているが、半分は別のものだと思っている。もちろん自分のものに違いはないが、この書き手の正体を自分は掴めない。
もしかしたら、ここに書かれている言葉の数々が、そのまま書き手の正体を暴いているのかもしれない。つまり自分は自己を持たない不安定な存在であり、時に背伸びをし、時に自嘲し、言葉を執拗に推敲したかと思えば投げやりになり、正直な自分を表現しようとする一方で体裁を気にして自己を偽る。オープンにしたかと思えばクローズして、書き始めたかと思えば途中で投げ出している。要するに、自分はいつでも変化し続けている。それほど不安定な自己であるということだ。
自分が常に自分の言葉に違和感を覚えるのはこういうことではないのか。違和感に対する執着も、脆弱で不安定で自己同一性が拡散している自分の変容に対する必死の抵抗と見れば多少の納得はいく。自分はいま、自分だと安心して認められる自分が存在していない状態だといえる。それはこれまでの絶え間ない自己否定の産物だということはよくわかっている。
解決を考えるなら、自分の認めたがらない事実をひとつひとつ受け入れていく他にない。自分はこれまでそうした事実を暴き立てる形で自分に突きつけてきたが、もちろんそれが必要なことだったにせよ、結果としてそれだけでは不十分だった。受容するということが大事なのだが、これがなかなか難しい。