1週間ぶりに創作を開いたところ自分の言葉の酷さに具合が悪くなった。率直に言ってあまり面白くない。しかし手直しすれば多少は良くなるという直感があった。
こんなことを繰り返すからまったく前に進まない。しかしとりあえず今日だけはこの不快な部分を修正することにした。30分ほどいじっただけでかなり変わったのでやって良かったと思った。
新しい環境に身を置いて新しいことを始めてから何かが違う。生活全般が未知なこと、不慣れなことに囲われていて、常に自分の頭が刺激されている感覚がある。そうした生活を1週間ほど送ってみて、改めて自分の作品を見たときの印象がつまらないというものだったので、以前の状況、自分の状態には何か問題があったと思う。
それが何かは分からないが、自分が思うのは、無自覚のうちに直感の堂々巡りに陥ってしまっていたということだ。自分の直感はミットに向けてボールを投げるといった意図的、計画的なものではなくて、偶然視界に入ったゴミ箱に対し、今手元のゴミを投げれば確実に入るという期待からよく考えずに投げてしまうという思いつきのようなものだ。
それが起きたときには大抵入ってしまい、しかし狙って入れようとしたら1度も入らなくなるという経験から、自分の創作に対する態度はほとんど神託のようなものになっており、この偶然のお告げがうまくいくようにと念ずるほかにないという状況にある(こうした神がかり的な態度を反省し、計画的に創作を行おうとしても毎回失敗するので仕方ない)。
しかし考えてみると、自分の直感が生じるきっかけというのは基本的に自分の身の回りで起こっている。ゴミ箱にゴミが入ると思いつけるのは、そこにゴミ箱があるからだ。だから自分が身を置いている環境というのが、そのまま直感に影響を与えることになる。
しかしこういうこともできる。自分がゴミ箱のある部屋に住む、あるいはゴミ箱を通過する環境にあるからこそ、自分はゴミ箱にゴミを投げるという直感に「縛られている」。ゴミ箱がある環境に身を置いているからこそ、自分はゴミ箱にゴミを入れたら入るだろうという直感を抱きやすくなる。つまり、ゴミ箱を目にしやすい環境があるために、ゴミ箱にゴミが入ると直感する頻度が高くなる。
この頻度が問題である。確かにそれだけを見ればそれは面白い直感であるかもしれないが、それが頻繁に起こるとき、それはいずれ惰性となり、マンネリ化する。自分は記憶が悪いほうで思いついたことはすぐ忘れてしまうから、毎回面白いと思って採用する。しかし面白いと思えた直感を束にして改めてシラフのときに見直したとき、何だかどれも似通った感じがしてつまらなくなる。おそらくそれは異なる場所、異なる日時に似たような直感に導かれているからだ。
面白さのひとつの指標が刺激の多様さにあるとすれば、自分のような思いつきの作り手にとっては環境を大きく変えたほうが面白いアイデアを生み出しやすくなるにちがいない。何がきっかけで面白いアイデアが生まれるかは分からないので、計画的に設計する必要はおそらくないが、自分の環境の新奇性を常に高めておくというというのは意識しておいたほうがいいかもしれない。