人生

やっていきましょう

夢という言葉が自分は苦手というか嫌いで、劣等感の塊である自分はこの話題を極力避けたがる傾向にあった。夢というのは呪いであり、うまく行けば維持しなければならない枷として、破れた後は執着として生涯心に残り続ける。だから夢を持つということは愚かだと考えてきた。

正直に言えば自分が夢を持ってひたむきに進み、それが破れてしまうことが怖かった。またその過程で自分の無能が暴かれることを恐れた。こうした感情があって自分は夢を持たないようにしつつも、夢のある人間に憧れと嫉妬を同時に抱いてきた。夢を持つように急き立てる人々の影響もあって、自分の人生は夢という漠然とした虚構に侵食されていって方向を見失った。

今でも夢に煩わされた時期を思い出すと嫌な記憶が蘇ってくる。存在しない幻想に翻弄されていた時期も辛かったが、その中で自分には本当にやりたいことがないということ、それを自分で誤魔化していたことに正面から向き合った時もまた辛かった。

ただ最近は夢というものが些細な問題であるように思えてきた。以前の自分は夢といえば何か強い発願の末に大いなる目標を設定し、それが果たされた先の未来に自分の本当の姿に出会えるものだと思っていた。言い換えれば夢が果たされるまでの自分は何者でもなく、夢が果たされなければ存在している意味を失うと思っていた。

この妄想が短絡的であったことに気づくのには随分と時間がかかった。おそらくそれが最も劇的で、芸術的な意欲の表出であることは理解できる。だがそれはひとつの類型でしかない。夢というのは自分の生涯を賭けて取り組むべき課題に対し、他者をも巻き込んで果たされる壮大な計画である必要は必ずしもない。それはたった今自分がやりたいことでも構わないのだった。

こう考えられるのはやはり人によると思う。自分の場合、周りの環境に合わせるために自分を抑圧し続けてきたという経緯があった。そしてその限界に達したとき、夢なる虚構が自分を抑圧から救い出してくれると錯覚した。しかし自ら抑圧し続けてきたこの自己こそがまさしく本当の自己であり、その心的状況からは意欲が生まれにくいという現状があった。それを誤魔化して夢を意欲をと独り相撲を取っていたのが自分だった。

だから自分には夢という虚構を無理やり自分に信じ込ませるよりも、今自分がやりたいと思っていることをまずはやらせた方がより有意義だと感じる。結局そうしてやり続けてきたことが大きくなり、動機と呼ぶべきものになるのだ。

夢というと人に認められようとしたり、抑圧された自身の復讐を果たしたいだとか、そうした露骨な野心を果たす方向に解釈しがちになる。それもまたひとつの夢の形だが、やはり自分には合わないと感じた。結局のところ本心で自分は自身の完全を求めているし、他者の賞賛以上に自らの納得を求めている。

この気づきを自身の核とするべきだ。自分は自分の感性に従いやりたいことをやる。実際やってみて何らかの形に残す。それが自分にとって満足を感じさせるならまたやるだろうし、そうでなければやらなくなる。そうした自然の流れに身を任せてふと自分を振り返ってみたときに、残っているものが自分のやりたいことだ。夢だのどうだのと考えるのはそれからで良い。

言葉というものは曖昧なものを曖昧なままにしておくことを苦手とする。自分がいま自身の関心についてあれこれ書いたとしたら、その形式はおそらく断定的なものになる。自分はまだ自分に自信が持てないから、今こうしたいああしたいと書くことは避けるが、自分の態度として自分の関心にはいつでも素直に従えるようにしたい。結局はそうすることが、かつて自分が夢と呼んでいたものに近づくことになる。