人生

やっていきましょう

自分が存在する正当性をどこに求めるかということは自分もよく考える。人によってはそれが家族であったり、国家であったり、宗教であったり、夢だったりする。自分の場合は何だろうと考えていたが、自らに抑圧を強いてきた自分にとって、すぐにそれを言うことは難しい。

多かれ少なかれ、個々の人間は自身を正当化する根拠を持っている。その根拠は誰かにとっては好ましいものでも、別の誰かにとっては好ましくないものかもしれない。こうした価値観の相違が摩擦となり、対立の引き金となる。その状態をそのままに放置していたら、世の中は喧嘩で溢れることになる。

こうした価値観の乱立と闘争が生じる世の中でおそらく次のような考え方が生まれた。それぞれがそれぞれの価値観を持っている。それらの正しさを巡って相手を否定するのはやめよう。お互いの価値観を尊重し、互いに認め合えるようになろう。こうした理想は学校の授業でよく耳にした。だが実際、価値多様性の問題は簡単に解決できるものではない。

この問題の核となる部分のひとつは、おそらく次のようなものである。個々の人間は個々の価値観を追求してよい。しかしその過程で、あなたが好ましく思わない価値の支持者が彼ら自身の価値観を追求することをあなたは受け入れられるか。

これに対して自分はある程度できると答えられる。例えば自分は最近の和製アニメが嫌いだが、鉄道オタクが鉄道オタクの価値観を追求することと同様、アニメオタクがアニメオタクの価値観を追求することを否定はしない。そのことによって生じる感情の無理も、ある程度抑えることができる。

しかし次の2つのケースに陥った場合、自分はそれでも肯定することができるか。第一に自分のトラウマを引き起こすような価値観が社会の自由な利益の追求によって自分の目の前に何度も見せつけられる場合。自分はアニメに対してそこまでの嫌悪は抱いていないが、当然嫌な過去というものはある。それらを理由に被害者感情が爆発するような精神状態にあったら、自分は彼らの利益追求を尊重することができるだろうか。

もうひとつのケースは、自分の側だけが無理をしている場合。例えば自分の小さい頃のトラウマが顕著な例だが、当時のアニメオタクは自分に対して自分に関心のあるアニメの話題ばかりを押し付けていた。それに対して自分は傾聴し、話に関心を持とうと努めていた。しかし自分の関心をその相手に話そうとすると、まったくの塩対応を返されるばかりであった。このように自分の側だけが相手の価値観に理解を示そうと無理をして、相手の側がそれに胡坐をかいているような状況に置かれた場合、自分は相手が相手の価値観を追求することを受け入れられるか。

これらに対して自分はこう考える。相手の価値観に共感を示す示さないは自分の勝手である。しかしいかなる状況に置かれたとしても、相手が相手の価値観を追求することを否定できる理由はない。価値判断は相手が正しい/間違っているという基準で行うのではなく、自分に合う/合わないの基準で行うべきである。その上で様々な価値観と自分が不快にならない程度の適切な距離を保つことが重要だ。相手の価値観に対する無理な同調は避けて良い。しかし同時に、自分の価値観で相手を束縛してはならない。

今自分が書いたことを自身の感情に照らして考えると、本心からそうだと思えているわけではない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないが、好ましくない価値観の支持者は、その価値観同様に嫌悪を抱かせることもある。しかしそれでも、自分は彼らの権利を支持する。それは途方もなく難しいことだが、自分の正当性を自分に納得させられる形で支持するためには、こうした他者の利益追求に対しては寛容にならなければならないと思う。