人生

やっていきましょう

「結局、お前は何をしたいんだ?」この不当な質問を聞く度に胸が苦しくなる。つまりそれは何かの作品に使えるということだ。いつか使ってやろうと思う。

この悪意ある質問には3つの問題がある。まず第一に、この質問は人間には明確な目的とそれを捉え続けるだけの意欲があり、その方針に従って突き進むことができる(あるいはそうして当然だ)という前提を盲信している。

第二に、この言葉の背景には意志が明確な人間が薄弱な人間に対して示す優位が存在し、対等な立場から発せられるものではないということだ。もちろんその前提は伏せられているから、自分からそのことを指摘しようものなら、そんなつもりはなかったと単にこちらが馬鹿を見ることになる。

第三に、これが最も厄介なことだが、人からこの前提が求められている場面では、概ねそれは正しいということである。自分が目標に対する意欲を持ちそれを相手にアピールすることは、自分の行動方針を他者と共有可能な形で提示するということである。それができるからこそ集団は機能し、あるいはチームが方向性を見失わず成果を達成することができる。

これらの前提に疑問を持つ人間というのは、大体生きることに向いていない。自己啓発本が真っ先に言うことは「悩みは切り捨て実行せよ」ということであり、世間における美徳は(このめまぐるしい社会を象徴するかのように)即断即決にこそ表れている。社会というのは自分の意欲を共有可能な形で持つことに疑念がない人間、あるいはそうでなくともそうであると言えてしまうほどにこだわりのない人間のためにある。

自分のような意思薄弱、自分が何をしたいのか分からないような人間には世間の居場所がない。昔はそのことをただ純粋に不当に感じていた。しかしこう考えてみたらどうか。もし自分のような人間が目の前に現れたとしたら?

例えば友達として考えてみる。遊びに誘ってみた。とりあえずは乗ってくれた。何して遊ぶか提案したら、何でも良いと返してくる。自分がゲームを提案したら、良いのか悪いのは判断つかない微妙な反応だった。別の遊びを提案したら同じような態度だった。さて自分は何を思うか。「結局コイツは何がしたいのか」。

実は自分は意思薄弱なのではない。自分の意思が衝突することを恐れているのだ。自分本位の関心や理解はいくらでもある。ただそれが世間と共有可能な形ではないために、変に思われたり笑われたりするのが嫌なだけだ。

しかしおそらく人は、自分が思っている以上に自分を開示してくれることを望んでいる。自分のフックが相手に分からなければ、相手も自分に合わせたり評価をしたりすることができない。あるネットの話し合いの場面で自分が黙っていると、なんで黙っているのか不快そうにしていた人間がいた。沈黙は思考に意識を向けた結果なのだが、その人には意思を共有させないポーズが不信感を抱かせたらしい。これには納得できる。

自分の内面の話をすると、自分はあらゆる面で自分も他人も信頼していない。自分の意欲は笑われるものだし、目標も馬鹿にされる。自分の理解も無知無学を明らかにするものだし、何かを断定することはこの上なく難しい。だからお前は何をしたいのかと言われても「分かりません」としか言いようがない。自分がゲームをしたいと言えば、果たして本当にやりたいのか分からなくなってくる。だけど明確な拒否感を持ってゲームがしたくないわけではない。ひとつ明らかなのは、ゲームに対する意欲を今まで曖昧な状態のままにしておいたということだ。

世間はこの「分かりません」を相当嫌っている。自分も相手がそんな様子だったら不満に思う。これは以前共有したメルヴィルの小説『バートルビー』に通ずる話である。この問題について当事者として一度でも悩んだことがある人間なら、自分の意思を断定することのためらいが理解できるはずである。しかしこのためらいこそは実社会では何の役にも立たない。

どうすれば良いか。ひとつは自分の意欲を大雑把に定義づけ自分で納得させる努力をすることだ。他人は自分が思うほどに自分についての情報の厳密さに関心がない。バラエティで芸人同士が話しているような表面的で浅いトピックのやり取りしか興味がない。自分もそのひとつの要素と自覚せよ。だから自分は私はこんな人間でこんなことがしたいという看板を雑に掲げていれば良い。それでもう他人に自分を理解してもらおうなどと思わない方がいい。