人生

やっていきましょう

最近の自分は、言葉にするならこの程度で良いだろうという妥協が上手くなったように思う。かつてのような強迫はなくなり、手軽な表現で簡単に済ませることに満足している。

ある意味自分は賢くなったのだろう。どんな言葉を使い、どの程度の情報量で話をすれば相手の理解が得られるのかが経験から分かってきた。だかは他人や失敗を必要以上に恐れないし、自身の改善を底なしに求めようとしない。

要するにあの異常な言語への衝動は、不安を原動力にしていた。自分は何も分からず何もできずという世界観の中で、僅な精神の安定を得るためにあらゆることが言語で説明され、自分がそれを追えている必要があった。ブログはまさにこのような動機から始まった。しかし事実を言えば、世界はそこまで全力をかけて言葉に置き換えて理解しなければ崩壊する不安定なものではないし、ある程度雑な理解で動いてもどうにか回っていく。

それに気づかせてくれたのは他者だった。自分が誰とも関わらなかった時は自分こそがすべての基準だった。だから自分の内的不安というものが直接世界理解に反映され、世の中に適応するためには何から何まで言葉によって整理され、自分が他者に向けてどこまでも説明できなければならなかった。しかし他者と関わる数が増えていくにつれ、その誰もが自分のような強迫を抱いているわけでなく、大体の面である程度言葉に適当なまま生きているということが分かってきた。そのことに彼らは負い目を感じているわけでもなく、不安を抱いているわけでもない。

こうした他者を目の当たりにして、自分はどこまでも言葉を掘り下げる動機を失った。上手く手を抜くようになった。確かにそれで楽になった。だがかつてのような文章を、今は書くことができない。