人生

やっていきましょう

489日目

自分が折れたことにより現実はいよいよ現実味を増した。偶然と不条理によって自分は容易く死ぬという事実が明らかになった。生きるという決断はこの不条理を前に死ではなく思考と適応によって抗うという覚悟から始まった。このことを自分はいつも自覚している。

しかしまだ粗がある。未だに自分は多くの弱さを抱えていて、いくつかの誤った偏見を野放しにしている。それらは自分の不安や恐怖心と強く関わっており、なかなか改善できるものではない。現時点で自分がそれらを克服することはほとんど難しいかもしれないが、何が問題であるかということには多少の判断がつく。

誤った偏見のひとつは「やりたいことをやるのまでなければ生きていけない」という妄想である。自分の夢がはっきりしていなければ自分は生きている意味がない。夢があり、その夢に向かって一直線に努力して、紆余曲折を経て成就か失敗するような人生でなければ自分は満足できないと考えているようだ。

いくつかの点でこの考え方が誤りだと分かっている。まず夢というのは初めから誰にでも与えられているようなものではない。夢はそれを見出した者のみに与えられる世界観であり、そうでない人間が簡単に見ることのできるものではない。だから無理をして夢を見ようとする、やりたいことをやろうとするというのは極めて不自然だ。

なぜこうした状態にあるかというと、自分はこれまでずっと世間からやりたいことをやらなければ意味がないという脅迫めいた常套句に曝され続けてきたからだ。まさしくそうでなければ人間ではないというニュアンスで自分は脅され続けてきた。それが大学時代に慢性的に陥ったアイデンティティの拡散と重なり、自分はなんとしても夢を持たなければならないと必死になっていた。

しかし現実的に考えればそれが単なる広告の類でしかないことがわかる。やりたいことというのは要するに需要であり、その需要に適ったサービスを購買してもらうことに真意がある。広告は時にアピールを誇張したり、買い手を不安に陥らせることをする。こうした需要を沸き立たせる仕組みが機械的に設計されている。

このことを責める気にはなれない。いくら世の中の過剰な広告に嫌気が差していたとしてもそれを止めることはできないし、そうした個人的な都合で市場を制限すべきではないと考えているからだ。消費者は建前上は購買に対して自由な選択ができる。だから自分に合わなければ宣伝文句に流されなければ良いだけの話である。

問題は自分がその広告を受けて購買するのではなく、購買を促すための常套句だけを見て自分に取り入れ続けたことにある。これがあったために自分は何もやりたいことを持たないが、そうであるべきでなく、何かやりたいことを持たなければならないと不安になっていた。

この不安を消すために、自分は夢など持たなくていいということを認めなければならない。それは夢を否定することではなく、これからの夢を生かすために敢えて離れることを意味する。自分のやりたいことがなければ自分のアイデンティティは拡散して死ぬという状態では選択には過剰なほどに慎重になり、断定には相当の覚悟を要する。そのため逆説的に何もできなくなりアイデンティティはますます拡散する。

だから離れる。やりたいことではなくできることを探す。それがやりたいことではなくても、今はできることだけをただ積み上げる。やりたいことというのはやりたい時にやればいい。それ以上の追求は無意味だ。

自分はやりたいことに支配される必要はない。自分がやりたいことを支配する。やりたいことに自覚的でない場合は、今はやりたいことなどないのだと認める。そのことをはっきりさせておく。