人生

やっていきましょう

自分がすべての物事に意味はないと考えるのは、検討や吟味の末に至った結論というよりは、失望という個人的感情に由来するところが大きい。何から何まで無意味だと言うのは知的怠慢であろうし、そうあることが楽だからこそ頻繁にそう思っているのだろう。しかしこうした惰性に慣れてしまうと、思考に対する忍耐が損なわれてしまうような気がする。

価値判断に際して、安易にすべてが無意味であるなどと考えないようにしている。全部無意味だというと、その程度の解像度でしか物事を捉えることができない。そもそも誰にとって無意味なのか、どのように無意味なのか、無意味にも色々考えようがあるだろう。

無意味というと自分は世界全体の問題にしたがるが、実際のところは自分自身の問題でしかない。自分が無意味だと感じているというだけである。ではどのように無意味だと感じているのか。

何かに触れたとき、自分の関心をまったく想起させないことが多い。世の中に面白いものはたくさんあるが、それに触れたところで何になるのかと考えてしまう自分がいる。そんな自分を否定したくて、どうにか面白がっているフリをしようとする。確かにしないよりは楽しくなってくる。しかし本当に関心があるのかというとほとんどないのである。

先ほど自分はすべては無意味だと言った。しかし問題を注意深く観察すると【自分】が何かに触れても【関心を想起させない】ために、すべてが無意味だと表現しているということが分かってくる。

更に観察すると、実際には自分が何かに触れたときに想起されてくる一次的な感情が、ただちに否定されているということが分かる。例えば自分が昔からハマっていたネットゲームがある。これに触れて少しだけ気持ちが軽くなる。しかしそのすぐあとに、それを楽しんでいる自分をただちに否定されなければならないような感情に襲われる。なぜなら自分が正直に楽しんでいる感情は他者に否定されるものであり、他者に否定されるくらいなら自分で予め否定しておいた方が気が楽だからである。

自分は人生で最も長く触れてきたゲームでさえ、それが趣味であると公言することに未だにためらいがある。趣味でゲームを作っているなどとはもっといえない。なぜならそれは否定されるかもしれないから。それほどに自分の自我は確立されていないのである。

自分が何でもかんでも無意味だと放言するのは、それが自分を守る殻になるからだろう。しかしそうしたままでありつづけると、自分の自我はいつまでたっても確立されてこない。他者に対する警戒が自分の人生のすべてだったが、そのために自分は自分の中にある個人的な価値観をすべて台無しにしてきた。そして自分はセルフネグレクトの状態に陥っている。

自分が何から何まで無意味だと言いたくなるときは、これらのことを思い返してみるべきだろう。この現状を踏まえた上で尚も無意味だと言うのであればそれはそれでよい(事実自分の核は死に、何事も無意味にしかとらえられないからだ)。しかしただ自分自身から目を背けて無意味だと言っているのであれば、一度自分の置かれた状況を考えてみる必要があるだろう。