人生

やっていきましょう

自分が苦手な作風や絵を描く漫画に対して、なぜそう思うのかということを深堀した。実際この手の問題は自分の否定的感情が先行して、問題の背景を正しく捉えることができなくなる。だがそこを明らかにすることで、自分の内面に抱える問題というのもまた見えてくるかもしれない。

結論から言えば、自分が嫌悪を抱かせる作品というのはその作品自体を嫌っているわけではない。その作品を見ることによって想起されるある種のイメージを嫌悪しているのである。

例えば自分はある少年誌の漫画の表現がどうにも苦手だった。少年誌の漫画は山ほどあれ、その作風や絵だけがどうにも受け付けないのである。また別に児童誌に描かれるような、ある種の雑味をもった描き方も苦手である。こちらの方は単一の作品というよりは傾向として複数の対象に抱くことがある。

他にもいくつかあるが、いったいなぜ自分はこれらに対して嫌悪を抱くのか。しばらく考えたが、おそらくそれは自分がこれまで目を背けてきたものと向き合わなければならなくなるからである。その目を背けてきたものとは何か。

これらの作品に共通するのは、どれも【かつての自分が好きだったもの】であることだ。例外もあるが、その大半がこれに属する。少年誌の作品は、かつて自分が中学の頃に漫画を描いていた時の「漫画を描くのが楽しい」という素朴な思いを想起させる。児童誌の作風は、自分がその絵のスタイルを自身のアイデンティティにしようとしていた過去を思い起こさせる。

同時に、それらを自分が強く否定して【自分から切り離した】という過去も共通する。おそらくそれは大学生の時のことである。当時の自分の中で創作活動は「いつかできたらいいもの」でしかなかった。しかしあるきっかけから創作を始めることになった。しかしそれらを続けていくうちに、自分が面白いと思っていたものが実は面白くはなく、また自分が描きたいテーマや目標が何もないということに気づいてしまった。それに焦りを感じたのか、自分でない誰かが面白いと思うものを進んで接種したり、自分はまったく面白くないけれども面白いことにされているものの面白さを評価しようとしていた。

そうやっていくうちに自分が本来何をしたかったのかが分からなくなった。こうなるくらいなら、創作なんて再開せずにずっと「いつかできたらいいもの」であればよかった。墓穴から骨を掘り出していじくりまわした挙句に、原型がなくなったようなものである。

そしてこの時の自分には自分と他人の境界がほとんどなかった。他人のアドバイスは自分にとって不利な情報をすべて投影しているから正しく、他人の言葉に耳を傾けないのは弱さの証であると当時の自分は思っていた。だから他人の言葉には無理をして傾聴し、自分が納得いかない話も何かいいところを見つけて共有の材料にしようなどと思っていた。しかしそうすればするほど、自分は他人にとって都合の良い存在となり、自己はますます消えていった。

こうした無理が完全にできなくなってすべてを投げだしたのが数年前だったが、その反動で自分が必死に守ろうとしてきた自分を自分から切り離そうとした。なぜならそれらは本来自分のものであったはずだが、いつのまにか他人によって都合よく改変された自己像の材料となっており、もはや自分のものであるとは言えなくなっていたからだ。

しかし上記のような作品に触れると、お前は本当はこれを望んでいたのだろうと脅迫してくる印象を覚える。かつてはそうだったが今は違うという自認を否定する脅威として、それらが眼前に現れてくる。だから嫌悪を感じるのではないか。

しかし時の流れが自分の中の嫌悪感が少なくなっていることを知らせてくれる。自分の中で段々と過去への執着が無くなってきている。