人生

やっていきましょう

652日目

ここ数年にかけての自分の創作の変化には目を見張るものがある。かつてはどこまでも真剣に自分の内面の苦しみを見つめ葛藤を表現しようとしていたのが、今ではただどうすれば面白くなるかだけを考えている。それが5.6年という歳月をかけてひとつの作品の中で起きているのだから不思議な感覚がある。

去年の秋頃に本格的な修正を加えてから作品の質は大幅に向上した。セリフの違和感は薄れ、曖昧だったストーリーには明確な目的が与えられた。

しかしそれらは、多くの「当時そうでなかったもの」を犠牲にして成り立っている。自分が何も分からずただ暗闇の中で真剣に葛藤し、苦しむことしか出来なかった自分というのは、それがどれだけ陳腐なものであれ、当時の自分にしか表現できないものだった。自分はその痕跡をほとんど消して、現在的な解釈によってストーリーを塗り替えた。

そこでは言うならば詩性や神聖さが失われた。自分の中の高邁な希求心が折れ、どこまでもニヒルな笑いに走っている。更に冷笑は加速して娯楽的な笑いと融合し、冷笑それ自体を冷笑し始めるようになった。それが今の作風だ。

自分は自分を以前よりも直視するようになったが、創作においては更に自分を誤魔化すようになった。この態度には納得できる。自分の中の葛藤や苦しみを誰かに分かってもらおうとしていた自分を否定したいのだ。

こうした苦しみはやはり自分の中で消化すべきで、創作の中ではむしろ自分が面白いと思ったことをやった方が良いと考えた。健全な考えだと思う。しかしそれにより、自分の作品の中にあったある種の真剣さが失われ、どこか薄っぺらいものになったということに自分は気づいている。

 

 

651日目

原因はわからないが、試合に何度挑戦しても勝てなくなる時がある。そういう時はただちにゲームを切り上げることが重要だとこれまで自分に再三言い聞かせてきた。しかし実際に実現できることは稀で、敗北が決まった瞬間にはもうそのことを忘れ次の試合を始めてしまう。

今日はこのことを強く反省し、敗北が重なった時にすぐにゲームから離れた。今日はそれができた。おかげで連敗の被害を最小限に抑えることができた。

負け続けている時は、一度負けるのも5回負けるのも同じことだと自暴自棄になりやすい。しかし重要なのはそこで踏み止まれるかどうかだ。不利な状況にあってこそ冷静になり、状況を見極め賢く振る舞う必要がある。これはゲームに限ったことではない。

650日目

今日から開発を再開した。第三章冒頭部から最初の目的地までのストーリーを完成させた。

第三章の中身を修正するにあたって変数が最も厄介な問題だった。複雑に入り組んでおり、ひとつの変数をいじると別の変数まで影響を受けてしまう状態だった。とはいえそれは合理的な意図ではなく、ろくに設計を考えずに作り続けた結果である。

更にその複雑怪奇な変数をよりややこしくしているのはストーリー全体に広がる有り余るほどの分岐であり、それがあるために迂闊に中身を修正することができない状態にある。

自分が今試みているのはストーリーの余分な分岐を減らし、出来るだけ変数同士を互いの影響から独立させるということだ。そのために一度ストーリー全体を見直し、今度はちゃんとした設計と管理のもとでゲームが進行できるようにしたい。

649日目

自分は自分の持つ傾向や価値観をただちに否定されるべきものとして捉えている。しかし本来それらを否定する理由などどこにもない。自分が何を好み何を肯定しようとまったくの自由である。だが自分はいつの日かそうすることをやめ、自分という人間が壊れるまで悉く否定している。

ある力を持つ人間は、自分の価値感を疑うということを知らずに済むだろう。なぜなら彼の人生では自ら修正を行う理由がまったくないからだ。自分の価値感に反する人間はただ否定し拒絶すればいい。それだけの力が彼にはある。

なぜ自分はそうしないのか。力といえば自分には自分を否定し尽すほどの有り余る力が無尽蔵に湧いてくる。この力はほとんど四半世紀に渡って維持されてきた強固な価値観であり、それゆえなぜ自分が自ら命を絶たないのか不思議なくらいである。この力を自尊に費やせばどれほど満足な人生を送れただろうか。だが自分はそうしなかった。

なぜか。自分という人間は世間にとって不都合であり、それゆえ自分を捻じ曲げてでも世間に適応しなければならないという緊急の必要性を常に抱えているからだ。自分の特性を歪めてでもなお、社会は存続されるべきであると反射的に答えてしまう自分は隠れた全体主義者であり、自分が誇りを持つこと以上に自分が存在できない恐怖に屈した弱者である。

自分には誰が何と言おうとこうすると言える自信がない。誰かが自分の価値感を否定しようものなら、そういう見方もあることに同意し、自分の価値感に懐疑を向けるだろう。明らかに根拠のない暴言でもなければ、いわれてみれば事実そうなのである。

自分という存在が世間にとって不都合であるならば、自ら死ぬ他ないという考え以上にまったく妥当な結論を導くことができない。この単純明快な帰結を生理的な恐怖がただちに上書きして、何も死ぬことはないだろうと自分を誤魔化し、いまはただ細々と生きている。これほどの屈辱はない。しかし自分は死にたくないわけではないのである。

どこまでも弱弱しいことしか言えず、自分が情けなくなる時がよくある。こうした考えすら誤魔化し偽りの自信に身を沈める者もいる。だが自分はそうしない。自分は無力であるという現実をただ直視する。弱音は吐く。それを言葉として記録し、言い逃れできないようにする。そして改善に向けて自分を変容させる。それが自分にできる最大限の反抗だ。

しかし何をどう変容させたいのか、もはや自分では分からなくなっている。いまの自分は何かがしたいという思いではなく、苦しみを和らげ取り除きたいという思いしかない。能動的な欲求が枯渇しているのだ。だから結局、自分の苦しみを緩和する方向に人生が進んでいき、ある程度安定が達成された状態から以降は停滞しているのである。

能動的に何をどうしたいという思いをどのように湧き立たせるかということを考えるのは苦痛でしかない。自分が苦心して思いつくあらゆる言い訳は「本気でやりたい人は既に行動している」という一言によって封殺される。あるいは「結局自分にはやりたいことなどない」という一言で終わる。どれも事実であり、否定のしようがない。

自分が自分の信念を犠牲にしてまで勝ち取った生存は、無気力な人生の延長でしかない。自分ではそれが間違っていると分かっているが、本当に何も行動しようという気になれない。

本当に自分は自殺を止めたことが正しかったのだろうか。いずれにせよ今ではもう全く死ぬ気が起こらない。

648日目

多くの人間がランクマッチで上位Tierのレジェンドをピックする中で最下位のランパートを選び続ける理由は自己満足以外の何ものでもない。本気で勝ちたい人間にとって、こうした勝算のない不合理な選択はかえって邪魔になるだろう。しかし自分は選び続ける。

目的と手段が合っていないというのは自覚している。ランクマッチは本来ランクを上げるために少しでも勝率を上げる努力をしなければならない。だから毎回誰もが紋切り型のパーティ構成で手堅く勝ちに行こうとする。そういう人間ばかりがランクマッチに集まるのは当然だ。しかし自分は勝つためでなく、プレーの面白さを重視して敢えてそうしない。よりにもよって毎回最弱レジェンドを選んでいる。

これが本気で勝ちに行く、いわゆる連携必須のPTだったらそこまで馬鹿はやらないだろう。野良であることに救われている。野良の良さは誰が何を選んでも自由だという点だ。その分不確定要素が増え負けやすくなる。だがそこがまた面白いと思う。

とはいえ自分は負けるために戦っているわけではない。多くの人間が敬遠するランパートの可能性を模索するために戦っている。弱い分、仲間の野良とは常に連携しようとする。緊急避難ができない分、前線にあまり立たないようにする。エイムと立ち回りで出来るだけ足を引っ張らないようにする。何よりバリケードの貼り方に細心の注意を払う。

それでもやはり弱さを実感する。試合を動かすほどの力をこのレジェンドは持っていない。とくに出来るだけ先手を打ち常に移動し続ける前提のapexで、籠城前提の立ち回りをしなければならないというのは苦しい。籠城戦も決して強いとは言えず、グレネードで簡単に溶かされる。

しかし自分はランパートを選ぶ。スマブラのデデデのときもそうだが、弱小キャラで強キャラに勝とうとする時が一番盛り上がる。当然負け続けるのだが、負け続けた先に見える微かな独自性を掴んだとき、そこにゲームプレーの醍醐味を感じる。

強キャラで分かりきった勝利を反復することには価値を見出せない。しかしそれこそ安定して勝つためには必要な態度であることは言うまでもない。独自性の追求という自己満足と勝利のための確かな戦略はそう簡単に両立することはできない。しかし自分はその達成を目指して日々努力する。

647日目

何をやってもうまくいかない時があり今日がその日だった。失敗の連続で心が打ちのめされ、意識が定まらない状態が続いた。

こうした時に無理に頑張ろうとしても無駄だ。頑張ればそれだけ空回りする。大人しく問題から離れその日は休むことが重要だと悟った。寝ても問題は解決しないが、問題と向き合う意欲は回復するだろう。

失敗した時は失敗を理由に自責や後悔をするのではなく、問題点と改善点だけを洗い後はもう忘れてしまった方が良いと誰かが言っていた。ストレスやパニックの渦中にあってはそんなことを考える余裕はないが、極めて重要なことだ。

失敗は当然起こりうるものであり、いくら自分に自信がないからといって自分が失敗するはずがないと思い込むのは危険だ。失敗を前提とした思考を心がけよ。失敗を受け入れ自分の肥やしにする必要がある。

646日目

あらゆる問題について作業速度を上げるということを今まで考えてこなかった。しかしこの速さの向上というものは、実は問題を手堅く解決することや深い思索を行うことと同様に極めて重要な要素であると最近感じるようになっている。というのも世の中には一瞬の判断で物事が決まってしまう局面が多く存在するからだ。

自分の人生はこのスピードというものをまったく検討もせず、時間に囚われない無駄な思索に全振りしたようなものだった。だから世間からみれば鈍間に見えただろうし、咄嗟の対応ができないから無能に思われていただろう。

そもそもスピードというものが自分ではよく分かっていなかった。なるほど世の中の時間の流れを無視した思索という起点からスピードという要素を検討することができなかったのは当然だ。スピードとはまさに余分な思索の剥離、省略、停止によって得られるからだ。

自分は何を言っているのか。自分が今口走った安易な考えは誤りを含んでいるのではないか。自分は自分の考えの反証となり得るいくつかの考えに反論することができるのか。ではそれを考えよう...こんな悠長なことをしていたら何もすることはできない。

自分は何をする。そのためにはこれをする。あとはそれをどれだけ素早く引き出せるかだけを考える。そこに葛藤や迷いを挟む余地はない。そうすることによって初めてスピード感のある行動が可能となる。

スピードを出すということはその分失敗しやすくなるということでもある。野良にありがちなオクタンのように、思索を省略することで充分な検討を行わず突っ走って死ぬことはよくあることだ。

だがスピードを出すために必ずしもすべての検討を放棄することはない。誰かが言っていたが、勝負の大半は事前にどれだけ準備できたかにかかっている。迷いや葛藤が生じるのはこの準備を怠っているためである。自分は想定外の出来事にパニックを起こし、それでも失敗できないと焦ってまったく明後日の方向に問題を掻き乱してしまう。そのトラウマからまた同じ不安に駆られ望まぬ失敗を繰り返し、最後には挑戦を放棄してしまう。

いわゆるハイパフォーマンスな人種はスピードに加えて確かな検討を挟んでいるように思う。要点を確実に押さえ無駄な思考を極力省略している。しかし彼らはなぜそのようなことができるのか。

雑な印象だが、まず彼らは準備を徹底する。それが確実な成功に繋がるとは限らないが、目に見える範囲にある対処可能な問題は事前にすべて想定し運用できるようにしている。次に想定外の問題によって失敗することをあまり恐れていない。失敗が自らの人格の否定ではなく出来事の結果として把握できているようだ。そのため失敗したら何が悪いのかを考えどうにか改善することができている。失敗から得た経験が自分の肥やしになると理解している。

こうした試行錯誤の結果、問題にあまり関係ない細部に強迫的になることがなくなり、パニックに陥ることもなく、無駄な雑念に囚われることもなく、要点を押さえスピードを出しながら成果を出すことができているようだ。

問題はそうした人間に自分がなれるか、もしくはそうなることに自分は向いているか、ということだ。はっきりと決めつけることはできないが、彼らの思考には学ぶべきことが多い。自分の関心が無駄な思索の方にあるにしても、多分な無駄を排除して袋小路を解体し、別の視点に意識を向ける必要があるというのは日々感じていることである。自分の反復的で発展性のない考えを愚かにも深淵で奥深いなどと肯定せずに、検討にスピードを取り入れた新たな思索の影響を観察したい。