人生

やっていきましょう

108日目

家にいるとどうも正気でいられなくなるので図書館に向かった。見慣れた光景だった。自分はかつてここで2か月間勉強を続けてきた。あっという間の2か月だった。それもあって、今では自室よりも図書館の方が居心地がいい。これも習慣のせいだろうか。

自分が手に取った本は中島義道ニーチェの本で、これが読みやすくあっという間に読み終わってしまった。ニヒリズム、平たく言えば人生は無意味であるという思想を扱っており、今の自分に適したものだと思う。自分は専門家ではないので、所々分からない点(たとえばカントやショーペンハウエルとの比較であったり、キリスト教パウロ主義やプラトニズムに対する否定である等)があったが、部分部分で分かるところを自分なりに取り入れた。今日はその感想というわけではないが、読みながら自分の思ったところを書いていこうと思う。

ニヒリズムに惹かれる人間というのは、大抵挫折を経験していると感じる。人生が順風満帆で遮るものがない人にとっては何の糧にもならない。それどころかつまらない戯言のように映るのではないか。なぜならニヒリズムは価値が無の上に立つという前提に立っているからである。たとえば友人がメジャーリーガーになるという夢を抱いており、甲子園の熾烈な戦いを見事に勝ち抜き、その結果スカウトの目に止まり、まさに今、大リーガーとしてのキャリアを歩み始めようとしているとしたらどうか。彼の肩を叩いて「君の成功には何ら意味がない。人生は無意味である、あらゆる諸価値は幻想である」と説いたとしたらどうか。自分ならまずこいつは何を言っているんだと思うし、何か誤解しているか、ストレスが溜まって八つ当たりをしていると考えてしまう。それでも執拗に無価値であることを迫るなら、名誉を得られなかったことに対する「僻み、嫉妬」だろうなと思う。あまりにしつこければ彼とは絶縁して、新しい仲間たちに慰めてもらうだろう。今日はこんなことがあった。古い友人が自分の成功を僻んで人生の無価値を説いてきた。あまりに腹立たしいので絶縁した。それを受けて同じプロ球団の先輩はこう語る。彼が落ち込むのも無理はない。彼は君の成功を間近で見てきた人間だ。彼は選ばれなかった。だが君は選ばれた。選ばれるということは誰にでもできることじゃない。自分の力ではどうにもならないことがあるからだ。だから天狗になってはいけない。肝に銘じるがいい。君の成功は努力というチップで勝ち取ったギャンブルの賜物だと。こう言われて自分はハッとする。ひょっとしたら自分は友人の立場にいたかもしれないのだ。その日から自分は立ち直った。そして何者にもなれなかった友人を心から憐み、今自分に期待してくれるファンの為に全力で戦うことが正しいことだと認めるようになるだろう。こうして自分は自分の地位を正当化する。その日から自分は本当のメジャーリーガーになった。

こうしたサクセスストーリーにニヒリズムが入る余地があるのか。ニヒリズムはメジャーリーガーとして成功した自分ではなく、価値の虚構性という何ものかに憑りつかれた友人の精神に宿る。健全な人間はニヒリズムの伝道を悪意であると感じる。なぜなら今まさに、自分は諸価値の中で生きているからだ。自分が価値の中で生きているのに、どうしてそれを邪魔するのか。邪魔する人間は総じて悪だ。だからニヒリズムというものは何の救いにもならない。

ところが人生の過程で挫折を経験した人間にとっては真逆である。誰がやれと言った訳でもないのに、ニヒリズムという薄暗い、気休めにもならない程の微弱な光に傷を負った人間たちがたかりはじめる。まるで死にかけた蝿のように。しかしニヒリズムは人々の救いにはならない。それどころか辛辣な現実を突きつける。すべてに価値はない。価値は後付けである。価値があるという人間の錯覚においてのみ価値は宿る。

死にかけた蝿がどういう経緯でその思想に至ったかは分からない。初等教育の過程でいじめられたか、部活や受験といった競争に敗れたか、恋人に裏切られたか、過労で鬱になりそのまま糸が切れてしまったか。それとも不治の病に冒されたか。様々な理由があるだろうが、とにかく今までの価値観が信じられなくなっているような人間、かといって新たな価値観も信じられないという袋小路に追い込まれた人間というのが、最後に駆け込む寺としてこのニヒリズムという思想のもとに集まってくる。

元々ニヒリズムというのはキリスト教的価値観が虚構であるということを主張している。だから本来の意味で言えばキリスト教的価値観に属さない人間にとっては無縁の存在である、ということを本書では書かれていた。確かにその通りだ。しかし自分は経緯や程度の差があれ、今まで自分が抱いてきた価値観に挫折し失望した人間であれば、誰でもそこにニヒリズムを見て良いと思っている。これはやはり広義としてのニヒリズムであるけれども、自分は狭義にこだわる必要はないと感じる。虚構に対する失望という点で自分はニヒリズムを捕えている(もちろん自分が勉強不足でよくわかっていないというのもある)。

ニヒリズムにたかる人間はニヒリズムに救いを見出そうとする。あるいはニヒリズムの克服を求めてニヒリズムに集まってくる。だがそうした宗教にも似た救済への期待は特にニヒリズムの前では完全に否定され続けるだろう。ニヒリズムは克服することができない。まさにこのことを強く意識し続けることを要求する。その上でどうするかを考えるかという思想であり、虚無を完全に否定することはできない。

ニヒリズムには二つのニヒリズムがある。ひとつは消極的ニヒリズムでもうひとつは積極的ニヒリズムだ。消極的ニヒリズムとはあらゆる諸価値が無意味であるという自覚に打ちひしがれ、まさにそのことを強く自覚しなければならず、どうしてもそれは避けられないので、厭世観とともに自分の慰めとなる気晴らしを糧に生きることである。積極的ニヒリズムとはあらゆる諸価値が無意味であるということを自覚し、強く受け入れ、一瞬一瞬を全力で生き、自らが無の上の価値の創造主になることである。

積極的ニヒリズム、または能動的ニヒリズムをわが身に受け入れるということは、尋常の力と覚悟ではできない。それができるのはもはや人間ではなく超人のみであるとニーチェは説いた。本書ではこんな感じで触れられていた。この二つは対立するものではなく、同時に存在しなければならない。徹底的に消極的ニヒリズムに浸って自己を没落させ、あらゆる諸価値を捨て去ってから能動性が沸き起こると。この徹底した消極的ニヒリズムを経なければ能動性は獲得し得ないと。

自分は無の上の能動性を獲得するに至ってはいない。自分は精神的な挫折からあらゆる価値観を喪失し、すべてに意味がないと認識するに至った。しかしそこまでだ。自分はそこから立ち上がることができない。自分が挫折してから鑑賞した映画は50本を超える。プレイしてきたゲームの時間は数百時間を超える。打ちひしがれた無力感は、娯楽という慰めを常に必要とし、にもかかわらずその娯楽は自分の生を肯定することは決してない。自分は1日1日、若さと社会貢献意欲、期待、スキルアップの機会をドブに捨て続け、ひたすら没落し続けている。

 何の偶然かTOEICを勉強した。これは能動的ニヒリズムの賜物だろうか。ある意味そうだし、そうでないともいえる。心のどこかで、自分は失われた価値、勉強すれば報われるという価値観をどうにか復興しようとしていた。そして2か月間、確かに自分は、それが錯覚だとしても、報われるに違いないという価値観にあった。そしてそれは正直に言えばやりがいがあった。長らく忘れていた自己効力感がふと蘇り、死んだ世界が息を吹き返したようだった。

だがそれは無を受け入れて始めたことだろうか。おそらく違うだろう。今までの価値に対する未練から動いてしまったのだと思う。これを能動のニヒリズムと見るのであればそう呼んでいいだろう。だが手放しにそう呼ぶことが自分にはできない。どうも自分はTOEICに諸価値の幻影を見ていたような気がする。高い点数で社会の関心を惹きつけ、労働力のアピールをしたかったのか、あるいはそうなることを期待していたのか。結局のところ自分は無を恐れ、そこにはもはや存在しない失われた価値観に逃げていた。

だがそれも完全にそうだとは言えない。自分は無価値であることを認めた上で、未練を埋めようとしていたのだ。自分は価値の喪失を経験し、以降この先の人生その欠落が埋まることがないことを強く自覚し、しかしそれでも価値を求めて2か月という歳月を勉強に掛けた。無意味を強く自覚しながら、それでもやり遂げた。ならばこれは、たった二ヶ月とはいえ能動的なニヒリズムと捉えても良いのではないか。

呼称に煩わされる必要はない。能動的だろうが消極的だろうがいずれも無意味である。だがともかく、無意味を強く自覚しながら自ら立てた計画を遂行したという歴然とした事実には発展の予兆を感じる。無において行動するとはまさにこういうことか。ならばもう一度、と言いたくなる。