人生

やっていきましょう

165日目

不安に対してリソースを割きすぎている。あらゆることに不安を感じ、それに対して警戒すればするほど、無駄なエネルギーを浪費して思ったように事が運ばない。これは妥当か。不安を抱かない人はそうでない人よりも余分なエネルギーを持っていると感じる。エネルギーを決断と実行に割くことができている。自分はおそらく普通よりエネルギーのある人間だけれども、そのすべてを不安と恐怖に対して防衛することに浪費してしまっている。

確かにこれでもいいだろう。こうする態度が切に求められる場合というのがある。たとえば自然災害。災害時に不安と恐怖に対して防衛する態度がなければ、簡単にパニックになり、何もできなくなる。だが今は災害時だろうか。そうではない。自分の中に映し出されている幻影に怯えているのだ。誰かが自分に対して命令をしているだろうか。誰かが自分に対して否定的な感想を述べているだろうか。誰かが自分に対して不当な注文をしているだろうか。そんなことは一度もなかった。

不安というのは未然の出来事に対して起こる。たとえば死が怖いのは、それを経験したことがないからだ。人と関わるのが怖いのは、それを経験したことがないからだ。自分はよく知らないから、それらを恐ろしいものと思い恐怖に怯えている。まるで幼児が夜になると幽霊が出てくるのではないかと震えてしまうように。

不安に対してより多くのリソースを割くことはできる。確かにそうすることで自分は安心し、その日生き延びられる確率はそうでない場合より高くなるだろう。だが極端にリソースを割くことには疑問が残る。本当に自分の生存確率を高めようとするなら、自分は決して外に出ない。外に出れば隕石が降って来るかもしれないし、ナイフを持った殺人鬼が自分を殺すかもしれないからだ。トラックが突っ込んでくるかもしれない。それなら外に出ないほうが得策というものだ。そして朝昼晩の食事を誰かに毒見させる。それから窓を防弾ガラスにして、自分の部屋には誰もいれない。自分の部屋には銃器を置いて誰かが侵入しようものなら発砲して抵抗する。まだまだできる。夜寝ている間は鍵を5重にもかける。重要な情報は金庫にしまう。PCから逆探知されないように重要な情報はネットに流さない。マインドコントロール電波に対して防衛するために、窓を全て閉じる。集団ストーカーが来るかもしれない。だがこちらには銃がある・・・。

ここまですることを自分はバカげていると思う。電波が自分の精神を刺激してマインドコントロールするとして、どうすればいいだろうか。どうにもならないだろう。日本には1億人も住んでいるが、どれだけの人間が突発的なトラック事故や殺人鬼に遭遇することに対して未然に防衛できているだろう。不可能だ。電波が自分を襲うなんてことに気を取られるよりも、もっと別のことにエネルギーを割いたらどうかと思う。そういうわけで多くの人間はあたかも隕石やトラック、まして集団ストーカーや電波など存在しないものと仮定して生きている。自分もその一人だ。

未然の危機に対する過度な不安は、ある程度抑制されてもいいものだとおもう。この判断は時と場合による。たとえば自分が宇宙空間にいたり、ギャングのアジトに囚われて脱獄するか否かの決断を迫られた時であれば、無視すべきでない。だがそうではない。自分が置かれている現実は、起こりやすいことと起こりにくいことがあり、幸いなことに、社会の企業や行政、多くの従業員のおかげで未然の危機というものがおおむね起こりにくくなっている。治安がある程度維持されていることで、外に出ても問題ないという自由が得られている。

現実に足のついた思考をしなければならない。現実というものを考えたとき、それははたしてひどく起こり得ることだろうか。そうでないのであれば、勇気をもって、起こり得ない方に賭けるべきだ。そうでなければ一歩も外に出られないだろう。

不安に対しても序列を設けられる。それは起こり得るものだとしても、その場の臨機応変な修正によって致命的な危機を回避できる場合もある。たとえば自分は誰かからひどく叱責されることを異常に恐れている。だが恐れたとしても結局いつかはやってくる。そんなときどうするか。その怒りが当人の感情をぶつけるだけの不当なものであるとして、彼が一向に変わる気配がないのであれば、その場を立ち去るという選択肢もある。最悪のケースは、彼の叱責を防ぎ切れず、そして自らもまた自らに叱責することで、二重に負荷をかけ、パニックになり、苦しみ、発狂し、ビルから飛び降りる。というようなことだ。それを回避するためなら、職場を止めても良いし、自分の失敗を今後改めるよう努力してもいい。可能性はいくらでもある。

自分はある程度、自分の力ではどうしようもないものに対して無意識に信頼を置いている。コンビニで弁当を買ったり、ゲームを買ったり、誰かと話して交流すること、それらを注意深く観察すれば、自分が当事者としてそこにいた時には見落としていたものがあまりに多い。だがその見落としがあり、今後同じような場面に遭遇したときにもまた見落とすだろうということが分かっているにもかかわらず、当事者としてその場の知覚によって得た情報を頼りに決断や実行をおこなうというのは、それらが自分にとって害のないものであると信じていることに他ならない。その信頼をもう少し緩めろというわけだ。自分の警戒の方向性を、本当に譲れない場合を除いて緩めてみてはどうだろうか。そうすれば、それだけエネルギーに余裕が生まれる。警戒で手いっぱいだった頃よりも楽しむ余裕が生まれるだろう。