人生

やっていきましょう

547日目

1日寝たら体調が回復した。頭痛と吐き気、熱っぽさがすべて無くなっていた。

不安なので今日1日は安静に過ごしていたが、この調子だと明日から作業が再開できそうだと思った。

今日は横になりながら自らの不安について意識を向けていた。散々考えつくしたことだが、この不安はいったいどこから来るのかということを考えていた。

自分がよく感じる不安は、先のことが予測できないということ、そしてそれがどういうわけか最後には悪い方向に転がっていき自分に返ってくる、という妄想から来る。

自分がコントロール不可能な状況に気がついたら流されていて、自分がどこへ向かっているのかは分からないが、確実に悪い方向に向かっている、そんな時にどうすれば良いか分からず不安になる。

そのことについて今日思ったのは、自分自身がそこにただ流されているから不安になるということだ。自分で制御できる範囲を逸して、制御不可能な混乱に身を投げるから不安を感じるのだ。

例えば、自分は強い社会不安を抱えている。それは自分に対して他者が自分勝手な都合ばかりを押し付け、こちらの話がまったく通じないという苦しみから生まれている。

自分はこの苦しみを誤魔化さず、無理に直視し続けた。そしてただ直視するだけだった。その結果自分の精神はおかしくなり、社会に属するということは、自分が他人の都合によって常に不利な立場に置かれ続け、拷問に近い苦痛を強いられるということに等しいことだと思い詰めた(幸い、それが非現実の妄想に繋がることはなかった)。

不安といえば自分の頭脳に対する不安もある。記憶力が悪く、勉強が苦手で、機転が利かず、のろまであるために、これから先の状況に適応できないかもしれないという不安がある。

また自分が自分でないことに対する不安もある。これまで自分は自分でない生き方を努力して継続してきたが、そうすればするほど自分がどんどん悪い状況に転落するように思えて不安になる。

他にも不安はあるが、例としてはこのくらいで良いだろう。

奇妙なことだが、なぜ自分は直視し続けるだけなのだろうか。多くの人間が自分の都合で生きているのなら、自分もそうすればいい。不安に対して積極的に関与し、変容させることが自分にもある程度できるはずだ。

ここに問題がある。以前自分が述べたように、問題は自分が困難な状況に陥っていたとしても、自分がそこから一歩も動こうともせず、そこから逃げることも、状況を自分で変えようともしないということだ。

例えば社会不安を感じるような状況、自分に無理難題を押し付けできなければ過度に叱責するという状況が仮に実在したとして、どうして自分はその苦痛を正面から受け止めて真摯に直視するだけで何もしないのか。その状況から逃げ、あるいはその状況を自分の有利になるよう介入してはならないという法はない。

一般的に言われていることだが、勉強ができない人間は、勉強ができない自分の状態を嘆き訴えるだけで、自分を勉強のできる状態に変化させるという想像力を持たないことがその一因であるということだ。自分は自分自身や状況を変容させることをせず、「事実」を見ると言って現状追認の鋭さばかりを磨き上げているが、それでは自分が状況に適応できないまま、無意味に苦痛を味わい続けるだけではないのか。

事実を直視という態度は冷笑のそれと近い。自分には現状を変える力がない。変える勇気もなければ、変えたことで生じるリスクを受け入れられる強さもない。自分にはただ黙って傍観するしかないということだ。そういう袋小路に追い込まれた自分の最後の抵抗が、事実を直視するというものだ。そこに笑いが加われば冷笑となる。

この態度を自分は間違っているとは今でも思わない。おそらく今後の人生の基本的な方針はこの事実に基づいて行われるだろう。しかしそれだけである必要はない。これまで事実(と自分が呼んできたもの)を直視し続けて得た認識をもとに、何らかの行動を起こすこともできる。あるいは行動を積極的に回避することもできないことはない。

これは自己啓発的な鼓舞でもなければ、無根拠な信念でもない。事実の延長として、これまで自分の行動様式にはなかった新しい様式に工夫次第でアクセスできるという可能性の話をしている。この可能であるということは過度な価値づけに由来するものではなく、それこそ事実として可能であるということを意味する。したがってそれほど無差別的に不安を抱くものではないということだ。いくつか例をあげる。

あるひとつの事実を言えば、実際は自分は簡単に生きることができる。自分に不安を抱かせるハイリスクの選択をすべて諦め、自分に受容可能な選択だけを愚直に行うというものである。このように自分の生存を自ら限定すれば、それほど人生は苦しいものではない。これまでの自分は常に中〜上程度にハイリスクな選択を取り続けてきた。だから当然失敗も多く、苦痛を味わい続けることになる。

また自分は苦痛を積極的に受け入れ挑戦し続けることもできる。これは挫折する以前と同様、リスクを追い続けて生きるやり方だ。だがこれまでとは違い、リスクの中で偶然に翻弄される余地を極力排するという工夫がなされることだろう。それが現実的に考えるということだからだ。それでも最後には運で決まるが、何もせずに宝くじを買うよりは何かの成功には近いと言えるだろう。

いずれにしても、起こるべくして起こることだ、という視点が重要に思う。自分に必要なことは回避と挑戦という選択肢を、事実の観察と同じくらい取りうる選択である状態にすることだ。あるひとつの選択肢に対する粘り強さは、柔軟性を失い、適切な判断力を失わせる。またそれゆえ不安が生じる。そうならないために、自分は広い視野で物事を見る必要がある。