人生

やっていきましょう

164日目

何となく生きていて、それが結果として社会に歓迎される(適応できている)生き方というのは、どこまでも素朴なものであるだろう。つまり、当の価値観を疑い修正する動機や必要性というものを決して抱くことはないはずだ。なぜなら自分に率直であることが、まさに社会に求められていることだからだ。

一方で何となく生きていたのでは、決して社会に歓迎されない生き方というのもある。たとえば皆が前の方を見ているときに、後ろが気になるような人間だ。あるいは皆が一定の成果を出している中、ひとりだけ足を引っ張るような人間だ。それが能力の問題であれ価値観の問題であれ、そういう人間を素朴な人々は排除したがる傾向にある。自分の当たり前を妨害するような彼らはひどく目障りに映るだろう。

このとき歓迎されない人々は二通りの選択を迫られる。ひとつは抗うこと。もうひとつは迎合すること。抗うことで自分の価値観と能力を保護する態度はとりあえず守られる。ただし抗うということは彼らと対立することを意味し、場合によっては軋轢を生むだろう。一方迎合することで、彼らと折り合いをつけることもできる。ただし自分の価値観や能力を修正し、場合によっては歪めなければならない。

どちらが妥当か?という話である。この問題は「何について」という視点が欠落しているため、極めて抽象的な議論になっている。実際は対立か迎合かという議論では解決しない。人間はある部分では対立し、ある部分では迎合する。ある部分に注目したとき、結果として多数はと少数派に分かれるだけだ。ヒトという分類では、自分はヒトであるという点で多数派に位置する。五体満足かどうかという点についても、多数派であると思う。その多数派の中の、ある限られた枠内で少数派になる場合もある。だから自分が生粋の少数派であると訴えることはできない。その点を留意しつつ自分が少数派であることについて語る。

このブログを設立して以来何度と繰り返してきたが、自分は社会の主流な価値観についていけなかった。だが決して抗うことをせず、むしろ迎合しようと努めていた向きもある。いや、より正確に言えば、抗おうと必死になりながら、その恐ろしさに耐えきれず、時には迎合することに必死になろうとした。だが大局的に見れば迎合しようとしていた。人と争いたくはなかったし、自分が折れることで集団が安定するならばと思って自分を修正し続けた。

自分はどうなったのか。自分は自分でありながら自分が消えてしまった。もはや迎合は不可能と見え、多数派を諦め、まさに今自分の価値観によって歩み出すことができるという状況でありながら、これまで自分の中に蓄積してきた歪みによって自分は消えてなくなった。自分は自分が望む望まないにかかわらず、外圧によって目的を与えられ、そのために自分を修正するのでなければ、何かをしようと思えなくなってしまった。それで途方に暮れている。

ここまでは何度も語ってきた。この先だ。ではどうするのか。明らかに社会の主流に迎合することは諦めた。だがかといって特別抗うわけでもない。自分は自立の道を選んだ。自分が自分の欲求に従い物事を考え、整理し、自分の責任において実行できる人間になれるまで、自分を肯定し続け、自分を鍛えることにした。ある意味主流派からの離別であるといってもいいが、離反ではない。自分に合わない人種と共生する道を選んだ。

確かに相手が悪いという面もある。自分は多数派の素朴な外圧によって言われるままだった。言われた通りに修正し、言われた通りに振舞った。そのことによる責任は相手は一切負わなかった。自分がそれでどれだけ苦しい思いをしようが、彼らには関係ない。彼らには、彼らの価値観が苦痛であることなど想像もつかないのだ。だが相手は決して変えられない。厳密には可能だが、途方もない労力がいる。だから変えられるものから変えようというわけである。それは自分に最も身近なところにある自分自身だ。

今までは人に修正されるままだったが、今度は自分の意思で修正する。これができれば確かな自信になる。だが今の自分にはほとんどできない。それが思い込みであれ、偏見であれ、自分の歪みが歪みであると分かっていても、自分に都合よく修正するというのは容易なことではない。当分はうまくいかないだろう。だが変えるという決意だけは変わらない。あれから5か月経ったがそれだけは変わっていないつもりだ。

自分はこれからどうなるべきだろうか。このまま自分に力をつけていけば、いずれ何かの価値観と対立することになるだろう。そのとき怯えて逃げずに、真向から自分の意見が言えるまでの実力をつけたい。他人が誘ってきたとき、自分の都合と考えて、乗るべきときは乗る、乗らないときにはきっぱり断ることができるようにしたい。自分の価値観を何者も動かすことができないという自信がほしい。おそらくそこまではいかないだろうが、そこに近いレベルにまで持っていく。あるいはその前に、自分の価値観を確立し、その価値観が最も自分に利するような環境に身を置く。そこではおそらく自分が多数派となり、皮肉なことだが、彼らと同じように修正の必要性を感じなくなるだろう。その加害性を受け入れられるのであれば、いつか自分もそうなるかもしれない。

自分は今まで習慣を持続させる訓練をこなしてきた。はじめは簡単な生活習慣から、次第に2か月間試験勉強をすることができるまでの実力が付いた。いずれも持続日数という数字によって結果が出ている。これからは更に難しいことを視野に入れていかなければならない。

目標としては今まで自分がこなしたことのないことが望ましい。なぜなら経験したことのないものは、自分にとってはひどく恐ろしいものだからだ。言語化すると滑稽にみえるが、実際にそうである。だから何かひとつ、近々やろうとおもっている。TOEICは経験済みだったから、ある程度余裕が持てていた。だが未経験のことについて長期的にやるというと不安しか残らない。途中で投げ出すのではないかとおもう。だがもしそれができたのであれば、自分は未経験のことについて果敢に挑戦したという自信になるだろう。そして今度は、行動範囲を広げてみようということにもなるはずだ。

推敲せず思いつくまま文章を書いた。同じことを書いているかもしれない。今日は雑なことを書いた。次はもう少し整理して書きたいと思う。