人生

やっていきましょう

884日目

過剰な言語化という問題について考えていた。自分は何かを書き表すとき要不要を問わず多くの情報を詰め込む傾向にある。そうしなければならないという強迫が自分をそう駆り立てるのである。

しかし周りの人間の会話を見ると、その情報量の少なさに驚かされる。中身を補うにはあまりに少ない言葉数でありながら、しかし互いに意思疎通が取れていて、何を言わんとしているのかが両者共々はっきりしているようだった。

こうした事例を何度も見るにつけ、また自分のような言語の過剰を持つ人間とほとんど遭遇しないことにつけ、自分の情報量の過剰が異常なものだということを認めなければならなくなる。本来なら自分もこのように言葉を表すべきだったのだろう。

思うに彼らは示された情報のみによって理解を補うのではなく、情報に加えて相手の言外の意図を察することで理解を補うのである。自分は言外の意図は存在しないものと考えており、まず言語化しないことには相手の理解も同意も確証が得られないと考えているが、一般的な人間のコミュニケーションは言葉の内容に限らず感情や表情、声の抑揚、その人の性格といったものから総合的に理解されるものである。

自分はこうした言外の情報を把握することが苦手で、それによって生じる様々な不具合を克服しようとして言葉に情報を詰め込み、さらにその情報が適切かつ妥当なものであるよう言葉の選抜を行い、ただひたすら言葉の伝達可能性を強化することを努めた。その結果が後に「教科書的」と評される極めて非人間的かつ標準的な言葉の数々であり、適切な言葉の過剰がかえって気味の悪さを演出するようになってしまった(しかも言語能力がそれほど高くないために、言葉の端々から無理がかえって浮き彫りになり、それが余計に辛く感じる)。

過剰を抑制しようとすれば良いことは明白だが、自分にはそれが難しい。いったい何をどの程度省略すれば言葉が確からしさを失わず、相手が情報を受け取りやすくなるのか。有効な省略と避けるべき省略の違いは何か。そもそも、とめどなく湧いてくる言葉の過剰と不安にどう対処すれば良いのか。自分には未だ分からない。

ひとつの解決は、言語の過剰と圧縮による対話の努力を放棄することだ。誤解や無理解を承知した上で、敢えて言葉数を少なくし、余裕を持って自己を表現する。他人の理解に期待しない。適切さを捨てる。考えすぎない。そうすれば言葉の過剰もある程度抑制されるのではないか。