人生

やっていきましょう

480日目

不明な知識が存在する。その知識の不在により、何らかの不具合が生じる可能性が否定できなくなる。そのことが不安を増長させ自分の判断力を鈍らせている。この問題に対する現実的な答えは、その知識が不明でありその結果何らかの不具合が生じていたとしても、実際に大した問題は起きていない。したがってそれほどに不安を抱くほどのことではないということだ。

必要なことはすべてが緊急の不具合であり得ると考えるのではなく、緊急なものとそうでないものを区別し見極める力を養うことだ。問題として明確に意識されたものの中では細かい分類を行うことができる一方、こと恐怖に関しては0か100かの思考に陥りやすい。だが実際の状況はそう思うほどに極端ではない。例えば自分の恐怖が、暴力によって一方的な従属を強いられることであるならば、そのことを理由にあらゆる対象に対して同等の過剰な警戒を行うことは現実的ではない。なぜなら力という点に関して強力な人間もいれば非力な人間もいるからだ。現実的に恐れるならば、それぞれの人間に対してそれぞれの評価を与えた上で適度に警戒するということが必要だろう。

ところで自分は何を恐れているかを考えたときに、とりわけ理解されないことを恐れているという傾向にあるらしいことが分かった。すべての人間は常に自分を曲解して悪くとらえるというイメージが自分は極端に強い。このことが人間不信につながり、社会不安に悩まされている。

ここでは自分がすべての人間が同等に自分を曲解し得るという可能性を絶対的なものにしている。だが人の理解とは絶対的なものではなく、相対的なものだ。理解力のない人間もいれば理解力のある人間もいる。自分との対話可能性というひとつ軸についても様々なグラデーションがある。自分は単一の解に答えを求めるのではなく、それぞれの場合に応じて適切な対処を行うことができる。このように考えれば恐怖というものはあらゆるものに対して常に過剰に抱く必要はないということが分かる。

自分は恐怖に対して怯えることしかできないが、恐怖にも序列があることが分かれば対処できる恐怖がいくつかあることが分かる。それは別に恐怖をかき消すという意味ではなく、湧いてきた恐怖を抑えながら恐怖に立ち向かうことができるかということだ。たとえば自分は対人恐怖があるが、街を歩いたりランニングをする際にすれ違うなど直接のかかわりが無ければ恐怖を抱くことはほとんどなくなっている。また人と直接話すのでなければ、他人と直に関わることで抱えるストレスは耐えられる。更に目的のない雑談をするのでなければ、目的に沿った事務的な意思疎通を行うことはでき、その際に抱くストレスについても少しは耐えることができる。このように自分の恐怖に対する忍耐がどこまで届き得るかということを考えれば、自分の抱く恐怖はきわめて現実的なものになる。あとはその対処をどのように行えばいいかを考えれば良い。このようにして冷静さを取り戻してから軌道を修正し、問題に対する適切な解決を行うといいだろう。