人生

やっていきましょう

486日目

自分の文章をよく見てみると中身がほとんど無いことが分かる。確からしさを装っているが、それらはすべて単なる思いつきでしかない。その言葉が何らかの意味において妥当であるという根拠を自分は持たない。どこか聞こえの良い言葉をキャッチして、頭の中で切り貼りしているだけである。

このことに自覚的になると精神が不安定になる。自分は自分の発信する表現が確かな説得力を持った情報として完成されているものと思いたがっている。しかし実際はそうではなく、直感的に沸いてきた不確かな妄想に、体裁を繕ってどうにか誤魔化そうとした痕跡だけが残っている。自分が思考と呼ぶそれは、どれだけ自分の曖昧さを誤魔化したかという過程でしかない。このことは自分にとって非常に都合が悪く、だからこそ自覚的になると不安になる。

情報はどのようすれば正しく人に伝わるかという話と、その情報はなぜ正しいといえるのかという話はまったくの別モノである。これらを分けて考えなければ、たとえば情報を正しく伝えようと必死に努力してもただ弁が立つようになるだけで、情報そのものの妥当性については疑問を残したままになる。つまり妄想を「正しく」伝えるようになる。

自分はこれまで他人に情報を伝達できないのは自分の表現力に問題があるからだと思っていたが、実際は表現力の問題ではなく自分の言説に適切な根拠を持たせることができなかったためである。自分は自分の言説を過剰に否定する傾向があり、そのことで自らの主張のすべてに正当性を見出すことができなくなってしまった。だが根拠というものには力があり、根拠不十分なものよりは信頼に足るものである。

すべてが信頼できないと懐疑に陥っているために適切な根拠を持つ情報とそうでない情報を見分けることができず、ただ自分の思いつきに任せて言葉を出している。これが自分の言葉の薄っぺらさの正体だ。それらの情報を区別し信頼できる情報をまとめることができれば、自分の言葉は確かなものになるだろう。

自分にできることはより多くの情報を自分の中に取り入れ、その情報の理解度を自分の言葉で確認することだ。本を読み、メディアに触れ、勉強する。理解度の確認となると自分の無知が暴かれるようで恐ろしくなる。だが自分の無知を誤魔化している限り、自分の薄っぺらさは放置されたままだろう。

自分が妥当だと根拠を持って言える情報をどれだけ多く引き出せるかということでその情報の中身は決まってくる。自分は情報が圧倒的に不足していながら、自分の中にある僅かな情報だけで済まそうとしている。ある程度は自分の言葉で誤魔化せるだろうが、それにも限度がある。せいぜい無知を薄く隠蔽することしかできない。