人生

やっていきましょう

947日目

人生を投げ出したとして、その責が自分から無くなるわけではない。自分の人生から逃げ出した先には、それ相応の報いが与えられる。失った時間は二度と戻ってこない。どれほど自分は悪くないと思っていても、何も努力して来なかったという事実からは逃れられない。

随分と長い間他人と比較することをやめてきた。自分は死んだ人間なのだと思い、発展的な考えを放棄してきた。希望を持たず、ただ苦しみを忘却することだけを意識してきた。

しかしそうある自分が何もしないでいる間に、外の世界は着々と変化していたのだった。かつて関わっていた人は変わり、世の中の流行も気がつけば変わっていた。同年代だと思っていた知り合いたちは遥か先にいて、自分は未だに幼稚な不安に苛まれている。

そう考えたとき、何かとんでもない間違いを自分はしているのではないかと不安になった。今この時、何かをリカバリーすればそれほど痛手を負わずに済むかもしれないのに、すべてを投げ出しているばかりに自分はそのまま緩やかに取り返しのつかない人生を歩んでいるのである。

挫折以降の人生は、ほとんど死にかけた自分に対する末期医療のようなものだった。痛みもなく、人間らしい生活を送って安らかに死ぬために、この弱々しく地面を這いずり回っている自分を肯定できるような、ほんの僅かな平穏を求め生きてきた。しかし自分のいる場所が天国ではなく、仮初の願望でしかなかったならば、いずれ自分は自分の抱いてきた幻想が空虚な妄想であると知るだろう。

自分は逃げて良いのだ、生きていればそれで良いと甘い言葉を吐く人間が山ほどいる。しかし逃げ出した先の人生に彼らは何ら責任を持たないのである。逃げ出した人間は、否が応でも逃げ出した人生そのものと向き合わなければならなくなる。それが恐ろしく、見て見ぬふりをしても意味がない。

自分が非力であるならば、たとえそのことを認めるのが辛かろうと、非力な自分ができることから始める他にない。生きるとはそういうことである。その決意は3年前にあったはずだが、今では失われている。もう一度自分を立て直すべきだろう。