人生

やっていきましょう

542日目

方向性が明確である音楽とそうでない音楽がある。この方向性というのは例えばある高揚に向かって音楽が目指している一定の向きのことを指している。

人々の共感を呼ぶ良い音楽というのは、この方向性がわかりやすくブレていないものだと思う。例えばドラクエ3の「冒険の旅」という曲は、その曲を聴けば一瞬にして「冒険」という方向性が与えられたことに自覚的になる。

方向性がある音楽は聞き手に道しるべを与える。それはその人の人生の中で感じた様々な感情に調和を与える。落ち込んでいるときに励ましとなる音楽がある。楽しい気分をより高めてくれる音楽もある。方向性があるということは、自分の人生に意味が与えられるということでもある。自分が感じたその意味を、それらの音楽は強化する。

しかし今の自分にとって、この方向性のある音楽は実に奇妙に映っている。それらはただ方向性があるという自覚だけを伴い、自分の没入と前進が伴っていないのだ。これは我が身に起きた意味の剥奪、自明性の喪失と直接関係のあることだ。自分はある方向性に対する主観的な意味を支持することがほとんど自然にできなくなってしまっている。どこまでいっても、それらは単に「方向を示す道標」でしかない。

こうした違和感が終始自分から離れず、方向性のある音楽からは次第に疎遠になってしまった。もちろんそれらを聞いて味わうことはできるのだが、それを自分と関連付けることができないために、たちまち熱が冷めてしまう。方向性のある音楽は、人生と物語が分裂していない人間のためにあり、意味の不在に陥った人間の支えにはなりようがない。

ところでこうした方向性を見失った人間はどのような音楽に流れるのだろうか。そうした自分を慰めるといった方向性を持つ音楽を好む者もいるだろうし、新たな方向性を模索する者もいるだろう。あるいは音楽そのものから離れる人もいるかもしれない。

答えは人それぞれだろうが、自分の場合、方向性のない音楽というものに親しみを覚えることになった。

以前も言及した記憶があるが、こうした方向性の不在を体現していると思われる音楽が自覚している限りでも4つは存在する。これらは明確な方向性を持たない(あるいは持てない)音楽であり、いずれも特徴的で面白いと思った。

簡単に言えば現代音楽、ジャズ、アンビエント、ミニマルがそれだ。自分の印象では現代音楽は解釈不能の苦悩、ジャズは雰囲気への没入、アンビエントは忘却、ミニマルは機能と反復を、それぞれ音として体現しているように思う。これらは人間が方向性の不在・解釈不能に陥った場合に取り得る行動・状態を示していて、自分は自分の陥っている現状からそれらをニヒリズムの体現だと解釈した。

現代音楽はあまり好ましいとは思えないが、その他の3つの音楽は自分の気分にあっているので頻繁に聞いている。とくにミニマルについては最近自分の注意をとくに惹いている。これは自分が意味や価値に対する漠然とした信頼を失ったときに感じた原体験、「価値観や意味は存在しなくとも機能は存在する」という自覚を強く想起させるからであり、それゆえ自分に親しみを沸かせるのだ。

奇妙なことだが、自分はあらゆる価値や意味を信じられないと言っておきながら、「あらゆる価値や意味を信じられない」という価値の方向性については無条件で信じ切っている。自分の中でニヒリズムというのが「」付きの方向性として意味を持ち始めているということだ。

これはかつて自分が経験した極限状態から月日が経ち、次第に意味や価値観を抱きやすくなっているということだろうか。そうかもしれない。自分は生きる意味を失ってから長い間さまよいつづけてきたが、それらの放浪を自分の体験として関連付けたいと思っていた。戦争体験を若い世代に伝えようとする老人たちのように、自分の価値喪失という事件を起点として今があるという方向性を、アイデンティティの物語としてどうにか意味づけしたかったのだろう。

しかしそれが叶わないということが自分には分かっている。そのような解釈は虚しいものだ。だが音楽、とくに方向性を持たない音楽を前にしたとき、そうした幻想があることを迂闊に信用しがちになる。価値が持てないこと、まさにそのことが価値として成立するという矛盾を自分はこれらの音楽に見る。