人生

やっていきましょう

1151日目

ネットのオフラインイベントで不審者が壇上に上がり、有名配信者のマイクを奪って運営の進行を妨げるという事件があった。元首相の殺傷事件のこともあり、壇上に登る不審者を事前に制御しなかった運営に対する疑問の声が上がっていた。

普段日の目を浴びることはないが、確実に存在するある種の人間というものがいる。自分もその1人だと自覚しているが、自分とは異なる種類の異常性を有した人間がこの世の中には多く存在する。彼らを見ると対話が可能であるという幻想が容易に消し飛ぶ。話が通じない。何を考えているか分からない。そうした存在に恐怖を抱く反面、自分もまた多くの人間からそう思われていたのだろうと考える。

ふとこんなことを考える。世の中の不審者は自分自身についてどう考えているのだろうか。自分は正常だと思っているのか。あるいは自らの異常性を自覚しているのか。自分が異常かもしれないと疑問に思うことはないのか。

少なくとも彼らは自分よりは自分の人生を生きている。自分は自分が社会に適応できないことに対して申し訳なさを抱き、できるだけ他人に迷惑のかからない人間になろうと意識していた。そうすることで自分は社会に存在価値を見出せると考えていたのだろう。その点で自分は不審者としても半端なのだ。

ある種の異常な人間は、その異常性を抑えるという発想がそもそもない。自分がただ望むように生きている。そんな台風のような人間が社会で生きていけるわけがない。しかし彼らはそれを問題には感じていない。

彼らを見ると、自分は自分の異常性、対話不可能性について開き直っても良いのではないかと思ってしまう。自分が申し訳なさを抱いたところで自分だけがただ苦しい思いをして、周りはそのことに気づかないまま、正常な世界を堪能する。このことに不条理感がないわけではない。

この考え方は危険だが、自分が自分の生存と満足のために他者と対立することと、徒に他者の利益を侵害することは必ずしも一緒である必要はないということを自覚できている限り、自分は自分の人生に対して申し訳なさを抱くべきではないし、自分の異常性を肯定すべきだと思う。

自分の異常性とは以前も書いた通り人とうまく会話ができないということだが、自分を過度に抑制し他者の都合に合わせすぎるということが不要な恐怖心を煽り安心して会話をすることをできなくしてしまう。言わば心因的なものであるため、他人に合わせるということはかえって逆効果になる。

自分は他人にとって都合の良い人間である必要がない。自分は自分の人生を生き、時には歓迎されない道を歩み他者と対立することを選んでも良い。良いというのは積極的な肯定ではない。選択肢が存在し、それを阻む理由はないということである。自分は異常者を見るたびにそのことを考える。