人生

やっていきましょう

当たり前のことを当たり前に受け入れられている人間が怖い。そのことを不思議だとも不快とも思わず、自明であるというただ一点だけで受け入れられている人間がどこにでもいる。なぜそんなことができるのか、それで安心できるのか自分には理解できない。

しかし考えてみるとそんな人間が大半であることに気がつく。誰もが自分の置かれている状況の異質さを自覚しようとするわけではない。何かのはずみで自明が崩れ、心の安定について再び考え直さなければいけなくなった人間が向き合うことになる。自分でさえ、そんな出来事から月日が経って自明を自明として受け入れられる時がある。それを怖いと思うのは未だに治っていないのだが。

自分には彼らこそ異常に見えるが、むしろ無自覚であることを自覚しようとする方が異常だ。出された食事に毒が入っているかどうか、自分の普段の歩き方をどうすべきか、自分の心臓の動きに問題はないか、寝ている時に誰かに喉を切られるのではないかと常に考えること、考え続けねばならない状況。それがずっと続いているのは異常だ。心はあらゆる無自覚によって守られているといえる。そうでなければこの世界の膨大な情報量を前に正気でいられるはずがない。

自分の場合は主に価値の自明について問題にしている(その他の大半の問題は"自明に"受け入れている)。自然に共有されている慣習、文化、言葉遣い、趣味、意見、観念。それらを当然に語る人間に自分は不安を抱く。それは軽蔑や嫉妬といった感情ではなく、正体が分からないという意味での恐れに近い。

自分が出会ってきた人間のほとんどが、自分を否定しなければならないとは思っていない。したがって自分を肯定できるものを自明に肯定している。自分の関心はそこにある。なぜ人は自明に自己を肯定できるのか。もしそうならば、なぜ自分は自明に自己を肯定できていないのか。

おそらく自分は自己を否定せざるを得なかった自己を肯定しようとした。自分が自己否定しかできないのであればそれが自分なのだと思い込もうとした。そうしたさなか、自分をそのまま受け入れられている大勢の人間たちに遭遇した。またしても己の自明さが崩れることになった。

自明に生きる人間は文句を言われる筋合いがない。彼らに対する恐れや不快感というのは、彼らの悪意にではなくその無自覚さにある。問題は自分の内面が彼らの自明に対して脆弱であるということ。合わない価値観なら離れればよく、そこで己の価値観を強化していけばいいのだが、そうすることができない自分の弱さがある(これは小さい頃からずっとそうしてきたことが原因だ。本来は自己が存在しないゾンビのような存在であるのに、それを偽って人間に擬態しなければ社会に適応できないという強迫観念があった。こうして自分は自分自身であろうとする一方で、所属する集団ならどこであれその集団で主流の文化に迎合した。そして自分はその集団にいなければ自分が存在しないということに悩み、途中で合わないと思っても次第に依存していくことになる)。

結局のところ自分のこころは自分で養っていくしかない(自分の役割には代わりがいても、誰かが自分の代わりになることはできない)。自分の置かれた内的状況は、自分が向き合って対処するしかない。

自分は集団(他者)と個人、どちらに重きを置きたいのか。やはり個人だろう。他人の長話を黙って頷いて傾聴し続けるという苦痛をもう味わいたくない。おそらくそれが自分の本心だ。人付き合いよりも自分の考えと向き合い続けていた方が精神的に安定する。そうであるならば、自分はそうすることを自分に許してもいいと思う。