人生

やっていきましょう

おそらくこれから先の自分の人生は、自身の劣等感をどう解消するかという課題に向き合い続けることになるだろう。寝る前やふとした時に自分の欠陥に思いを巡らすと、そうしたハンディキャップを抱かずにいられる人間が羨ましく思う。こんなことを繰り返していても意味はないので極力気を逸らそうとしているが、完全に意識から除外することができないでいる。

劣等感に対する現時点での解決策は他人と比較をしないということである。自分が悩むべきことは自らの抱えている個人的な問題だけであって、他人の境遇や能力に対する羨望や嫉妬は無意味である。それよりも自分が抱えている問題をどのように解決できるかだけを考えたほうがいい。

自分がとりわけ他人に対して抱く妬みの感情は、自分が好きだと思っていることを追求できている正直さに対してであり、それができない自分を悔しく思うのであるが、彼らを妬んだところで自分の中の率直さを肯定できるようになるわけではない。むしろそのように考えることは、自分の怒りや憎しみ、悲しみといった負の感情となることで、自身の修正の怠慢を招き、安易な他責/自責思考へと走らせる。そして結局はそのことで自分は満足してしまう。

現時点で自分が出している答えは以下の通りである。まず事実として、自分は自らの好みや関心を正面から受け入れ追求することができていない。そしてそうする方法も分からない。自分を否定し他人に合わせる期間があまりにも長すぎたのだ。自分はこの状況を直視できず「自分が本当に求めているもの」を今から追求しようと必死になった。しかしそうすればするほど、他人にはそれがあり自分にはそれがないことの違いに苦しむことになる。

自分がなすべきことは、まず「自分が本当に求めているもの」というものが存在しないと自覚することである。そして存在しなくて構わないと思うことである。自分の動機をよくよく振り返ると、自分が求めていたものはすべて自尊心の欠陥を埋め合わせるための方便にすぎなかったことがわかる。絵を描きたいと思うことは、絵を描いて肯定される自分によって劣等感を解消したいという思いとほとんど同じである。だからそれが絵であれ小説であれゲームであれ何でもいい、というのが実際のところではないか。

「自分が本当に求めているもの」の追求することは、結局のところ他人に対する劣等感から始まっている。だから一度それを捨てたほうがいい。これが自分の出した結論である。他人に触発された動機をまずは否定する。他人のために無理をせず、他人のために自分の好きなことを偽装しない。自分が納得できること以外はやらない。そうやって自身の優位が、少なくとも自らの内面の中では確立できている環境を作っていく。すると何を追求し、何を追求しなくて良いかが少しだけ分かるようになる。

こうしたことを書くと忘れがちになるのだが、自身の優位を確立することがすなわち社会性の否定であっていいとは限らない。自分が散々苦しめられ劣等感の根拠となった他者への意識だが、この感覚があってこそ自分は自分の都合で他人を振り回したり、集団との連携を無視せずに済んでいるのである。自分は他者との協調を本心から求めていないにも関わらず過剰に無理をして疲弊していたというだけであり、協調それ自体は否定されるべきことではない。

自分は精神的にかなり病んでいた頃にこの過ちを犯した。2015年頃、自分は1浪の末に志望大学に受かったことへの解放感と、自らの主体が存在しないことの不安の間で揺れていた。その中で出した結論は自分の感情に対して何でも正直になるということであり、自分が面白いと思うことは何でも言い、相手の感情を何ひとつ考えてこなかった。当時の自分はネットで育ちの悪い人間と関わることが多く、そうした文化を自然と吸収し、肯定するようになっていた。それらの態度を誰これかまわずぶつけていたので、知り合いの一人を傷つけてしまった。他者に対する反抗から自身を肯定するとこういうことになるのである。

また2019年頃、自分の精神はどん底にあり自殺をするかどうかというところまで追い込まれていた。そんな時に知り合ったネットの知人に自分は多少精神的に救われていたのだが、当時の自分は自身の精神の不安のことだけしか頭になく、他者の都合を何も考えていなかった。この時よりも前からその傾向があったのだが、自分は自分の中の不安を他人に吐き出すということ、つまりこのブログで書いてあるような一切をチャットという形で他人にぶつけていた。そうした文字の暴力を他人に聞かせ続けるということは相当な負担であったに違いない。にもかかわらず自分は他人に吐き出したことで解決に向かわない苛立ちを心の中で抱いていた。また一方で彼らに対して自分のことを分かってくれるに違いないという妄想を抱いていた。だから自分の考えていることは言わずとも分かってくれるものだと思い、また自分の都合は相手の都合といつも一致していると思い込み、彼らがそうではないと分かるや否や裏切られたと勝手に感じている自分がいた。

2015年頃の正直さ、2019年頃の他者依存的傾向は、いずれも社会性を放棄し自身の感情に率直になった結果である。この2つのケースから自分は学んだ。どのような精神状態にあっても最低限の他者意識、社会性は自覚しておこうと。節度を弁え、相手の存在をわすれないようにすることが他者と関わる上で重要だった。

はじめ自分はこのことに抵抗があったが、この最低限の社会性が、最後には自分を守る盾となるということに気づいた。自分の人間関係がそこまで破綻していないのは、もしかするとこの社会性のお陰かもしれなかった。もし自分が今でも自分に対して完全に正直であり、その状態のまま他人にぶつかっていたら人はどんどん離れていっただろう。自分は基本的に慣れ合いはせず一人で活動するような人間だが、他人と関わらないことで生じる様々な不都合を受け入れてでも他人と関わりたくないと思う人間ではない。自分が第一に考えるべきことは自分の関心の追求だが、その一方で他者への配慮も忘れてはならない。