人生

やっていきましょう

自分は世の中から歓迎されていないと感じる。その場に存在するだけで自分が邪魔者であるという自覚が頭から離れない。なぜか自分だけがその対象であり、自分以外の他者は、そうであってもいいはずなのにそうはならない。彼らは世界に溶け込み、自分だけが異質の存在としてそこにある。

これは思い込みに近い。自分がそう思われることの恐怖心と、自分が先んじてそう思うことで痛みを和らげようとしていることの区別がついていないのかもしれない。ともかく、自分は今ここにいるべきではない異質な存在であるという価値感が拭えない。

その一番の理由は自分の意志で生存していないということである。いま生きている人間は、自分が生きていることに安心しきっている。生きることは当たり前だと考え、自分が存在して何も問題がないように感じている。自分はそうした人間に対して劣等感を抱く。そう思えるほどの自明の強固さが自分には存在しない。

自分の過去は外圧に対する忍耐の記憶しかない。そうでなかったことももちろん沢山あるが、自分の記憶はすべてそれらを埋め尽くしている。だから自分は、行きかう人間から「どうしてあなたはまだここにいるの」と問われている気がしてならない。

自分は無理をして、自分は自分の意志で自殺をしないと決意したと弁明した。自分にはまだ果たすべきことがあり、それが自分の生きる理由であり、迂闊に死ぬわけにはいかないのだと。しかしそれは痩せ我慢というか言い訳に近いものであり、本当のことを言えば自分には生きる理由がひとつもない。自分の決意などその程度のものでしかない。

自分は自分の意志というものが希薄であり、ほとんど存在しない。自分は無力だと学習し、自分の望みは何も叶わなかったことを理解しているからだ。自分は無気力で、動きだせない。にもかかわらず、どうにかしなければと必死になって自分を取り繕おうとしている。自分は自分の意志にない偽の意志を自分の意志だと必死に言い聞かせているが、よくよく観察してみるとそれは誰かが弱者に向けて言い放った煽り文句であるとか、自分が言わたら悔しいと感じるであろうものを発端としていることが多い。それらは結局のところ外圧を受けて生じた反応にすぎず、自分の内側から生じた意志意欲というものではない。だからおかしくなる。

自分は自分の意志で生きようとするのでなければならない。そうでなければすべてが虚しい。他人に対する警戒や不安を動機としたさまざまな考えは、他者に依存した隷属の発想である。自分がそれを求めているのかと自問したとき答えはNOだとはっきりしている。小さく弱弱しいかもしれないが、これが自分のひとつの意志であることは間違いない。