人生

やっていきましょう

何か理解できない文章にぶつかったとき、その文章の方が悪いと考えるようになっている。これは悪い傾向だ。自身の知的怠慢を相手の能力不足であると誤解している。

理解できないものに対して自分は以前よりも理解しようとしなくなっている。自分が手放しに理解できる概念だけが存在し、そうでないものは支離滅裂なものである。そう考えることで自身の無知を正当化している。

しかし必ずしもそうとは言えないのではないか。自分は最近、理解できないことにぶつかる頻度があまりに多すぎる。ということは、自分に理解できる範囲が狭いということではないか。

確かに先日書いたように、自分は学習らしい学習を全くしていない。一瞬何かを考えてそれを分かった気になって気をそらす。そんなことばかりを繰り返していたから、もう自分は手遅れになるレベルまで後退が進んでいた。

手あたり次第本を読んで何かを勉強したい。そうは考えているものの、今自分が取り組んでいるゲームの日課があってなかなか着手することもできない。ゲームの開発もある。自分は手一杯である。だがこの状況が長く続けばそう遠くない未来に自分は本当にその自覚さえ失ってしまうかもしれない。現に数か月間その自覚を失っていたのであり、おそらく次はもっと長くなるだろう。

自分が思うことは、とにかくゲームの日課をすみやかに終わらせなければならないということだ。そのために目標の250レベルにさっさと到達し、いち早くMMOから離れることが重要だ。もし切迫して危機感を抱いているのなら今すぐ中断しても良い。しかし自分は今どうしても学ばなければならない対象が存在しない。

危機感に煽られて意思決定をすることは、あまり自分にとって好ましくないという反省を数年前に経験した気がする。そういう結論に至って自分は今意欲に基づく意思決定を中心に据えることにしてきたが、結局のところ人は尻を叩かれなければ動かないのである。意欲があれば勝手に動き出すが、意欲がないなら危機感に流される他にない。だから意欲が生まれるまでは、とりあえずは危機感で動いてもいいのではないか。