人生

やっていきましょう

1229日目

人生に真剣だった時期を思い出した。当時は絶対に退かない、諦めないと自分に無理をしていた。その反動で数年の歳月を失った。自分は今何ができるだろうか。

自分が自分の世界観の内側からものと見ようとすると、そこには必ず劣等感が潜んでいる。何事につけて自分はダメな人間だと考えずにはいられないのである。自分が自分の満足のために生きているとき、誰かの提供する何かを目の前にするとき、自分がどうしようもない無能であるという考えがちらついて興ざめする。

この呪いにも似た劣等感を解消するためにはどうしたら良いか、一度冷静になって考えてみる必要がある。

まずそもそも劣等感を正当化しているある種の価値観を崩す必要がある。自分の場合、それは「人と話せない」「誰かと理解し合えない」という障壁によるものであったことが大きい。

自分は人の運に恵まれず、常に誰かに誤解され続ける人生を歩んできた。その2つの例を挙げるならば、ひとつは理解力の欠如と思い込みの強さゆえに会話が成立しない人間と長期的に関わっていたということ、もうひとつは自分の関心にしか興味のなく、自分のことは何でも話すが、人の言葉は全く聞かない人間と長期的に関わってきたということである。この経験から自分は他人とはまったく話が通じないことが常であり、信頼関係は築けないことが多いと学習した。自分が人と話せなくなったのはそれからである。

自分の半生は、この「人と話せない」という問題の根本的な解決が難しいことを自覚して、その分別の分野で努力をしようと考えたところから始まった。自分は本来諦めの悪い人間であったから、この欠陥が致命的であると自覚しながらも、学生時代はどうにか無理をして頑張ってきた。

しかし結局のところ、この試みは失敗したのである。劣等感を解消するための様々な努力は、その努力の直接的な結果として成立したものに対しては成功したといえるが、いずれも劣等感を解消するには至らなかった。自分は何をしても他人に誤解され、興味を持たれない人間であるという思い込みは取れなかった。そしてそのことに恐怖と不安を覚え、何も言葉が出せなくなる自分を前にして、人々は自分に不信感を抱くのである。そしてそのことが、結局自分が恐れていたことをまさに招いているのである。

以来自分はすべての解決を断念し、内面の自殺を経た。あれほど生きるために必死だった熱量は今ではもうどこにもない。ただ劣等という命題が自分の頭にはあり、唖の囚人としてその檻の中から外の自由な人間を眺めるだけである。

この前提、人と話せないということに由来する絶対的な劣等感をどう解消するか、ということを自分は常に考えている。一般的に言われることとしては、話せないのは何らかのストレスを感じているからであり、そのストレスを取り除くことが緩和につながるというものである。しかし人と話さず、文字を交わすだけで済む世界というのは少なくとも現実にはどこにも存在しない。

根本的な解決が望めないとしたら、自分の問題の捉え方を変えるほかにない。自分は劣等感を絶対的な条件と考えているようだが、それは自分の能力と必ずしも一致するわけではない。以前誰かに自分が文章を書くことができるという性質を奇異の目で見られたことがある。自分はただ思い付きを書いているだけなのだが、そもそも思い付きを言葉にして捉えることが、(もしかすると自分の会話と同じ理由から)できない人間もいるということである。そのことは自分に自尊の念を起こさせはしないが、よくよく考えればこれはあらゆることに言える問題である。

単純に言えば、人にはできることとできないことがある。そのできるできないは二元論ではなく、その間に無数のレベルがある。自分は自分のレベルと比較して高い数値のみをとらえており、それゆえ自分が常に最底辺に置かれていることを確定させる世界観を構築している。しかし自分の下には同様に無数の人間がいるのである。

劣等感を克服するには、この自分を最底辺に置くという見方を変える必要がある。悪例として下を見て悦に入るという方法もあるが、こうした見方で改善できるほど自分の劣等感は浅くない。

そこで自分は自分の可能不可能を他者との比較ではなく、自分との比較という目線で捉えなおすことを考えた。この自覚は先日復帰したMMOから学ぶところがあった。自分は十数年間狩りをせずチャットだけをしていたが、自分のゲーム内の知り合いは皆圧倒的な火力とレベルをもってはるか遠くにいる。

しかし奇妙なことに劣等感というものは全く抱かなかった。そもそもレベルや火力に関心がなかったということもあるが、むしろ自分に関心があったのは自分が以前の自分と比べてどれほど強くなったかというところにあったからだ。はじめはボスを倒すのにも苦労していた自分が、レベルを上げるにつれ簡単に倒せるようになった。その成長を実感する面白さというものがこのゲームにはあった(そもそも対人ゲームではないということもあるが)。

人生もやはりそうした方が良いのではないか。他者と比較をすれば自分よりも有能な人間はいくらでもいる。彼らばかりを見て、彼らと自分を比べてみても、自分の自尊心を徒に傷つけるだけである。そうではなく、自分が以前の自分よりもどこまで可能な領域を広げることができたか、という目線で世界をとらえたほうが良いのではないか。そうすれば他人のことなど見ている暇などないし、そのことで不当に煩わされることもない。

自分は他人を見すぎていたのかもしれない。他人を恐れ、他人を警戒するあまり、肝心の自分の可能領域を正確に判断することができなくなっていた。自分はもっと自分のために生きるべきだ。それは自分を甘やかせということではなく、たとえ自分の特性が世間に適したものでなかったとしても、自分を不当に卑下する必要はないということである。

自分が劣等であるというのは事実である。自分にはできることがそれほど多くはない。しかしそれは誰かの世界観から見たときの自分である。多くの有能な人間がしのぎを削っている世界では、自分のような落伍者は無能に相違ない。しかし自分の尊厳を、この世界観のために売り渡す必要はない。

自分がすべきことは、誰かの世界観に振り回されずに、自分のできることをするということである。そして自分の不可能をどこまで可能に近づけることができるのかを考えることである。自分の会話ができないという問題は、どこまで改善できるのか。自分の人間不信はどこまで緩和できるのか。そのために何ができるか。そうした蓄積のひとつひとつが、自分の劣等感をやわらげ、自分のなすべきことをはっきりさせる。