人生

やっていきましょう

自分は作品に違和感を覚えるとすぐに修正しようとする。つまり自分の創作上の動機は違和感を排除することにあると言える。

考えてみれば奇妙な話である。違和感の排除。無数の情報の中から自分に嫌悪を抱かせるものだけを極力排し、自分の好ましいものだけが残る。

自分は違和感の正体を知らない。描かれた表現を見て感じた嫌悪を、より満足のいくものにするだけだ。しかし自分は何に対して嫌悪を抱いているのか。

多いのは聞こえの悪い言葉である。一見して理解し難い言葉、演技ぶって着飾った言葉、つまらない言葉、演出を無視した説明的な言葉など、とにかく様々な違和感に振り回されている。

自分はこうした違和感の種を、新たに直感によって導かれた言葉で上書きしていけば違和感は消えるということをうっすら信じている。事実そのようになることもあれば更なる違和感をもたらすこともある。とはいえ大局を見れば違和感は減っているのであり、この修正は違和感が消えるまで続くのであながちデタラメとも言えない。直感に従い修正し続けていけば、最終的にはある程度納得のいくものができる。

しかし自分はこの直感なるもの(あるいは違和感なるもの)自体を十分吟味したことがない。違和感を排した先の表現は自身の納得をもたらすが、なぜそうなるのか、どうして自分は納得を求めるのか、まるで理解できていない。とにかく作品は自分が納得していなければならず、受け手がどうあれ、自分に違和感を抱かせるものは徹底して排除しなければならない。

こう考えると自分にとっての創作は虚しいものである。自分が好きなものを好きだからという理由で作っているわけではない。自分の中の違和感を排除したいという一心で創作をしている。

だから自身の好きを全面にアピールするような作り手にはまったく共感できない。当然理解はできるし、作り手とはそうあるべきだと思う。しかし自分は、自分が好きなものを誰かに伝えたいだとか、理想の表現が描きたいだとかいう高尚な動機などなく、ただひたすら違和感を排除した漂白を求めているのである。こんな様子だから、自分の創作はいつまでたってもレベルが低く、他人からすればつまらないものだと思う。