人生

やっていきましょう

習慣ということについてこれまでとは違った側面から考えたことがある。習慣は恐怖と不安を打ち消す。はじめは何事も恐ろしく無理だと思い込んでいたものが、何度も繰り返すうちに日常の出来事になる。これは自分自身が能力的に状況に適応したからということもある。しかし自分が思うのは、習慣化されたことでその行動が及ぶ範囲が見えてきたこと、その結果心理的な安定が得られたことが大きいということだ。

自分は今なにも考えずpcの電源を立ち上げ、ブログを開き、なんの気なしに文章を書いている。それが自分にとっての習慣化された日常だからだ。しかしpcに初めて触れた時の自分、このブログに初めて登録した時の自分は不安しかなかった。自分のちょっとした行動で、すべてが一気に台無しになるかもしれないと考えたからだ。新しいゲームを始めたときもそうだったし、自分の知らなかった(忘れていた)ことを学ぶ時も同じ感情に包まれていた。

こう考えてしまうのは自分の弱さだろう。自分は自分の行動が行き及ぶ範囲とその影響について考えられない時、かなり深刻に(時には非現実的に)見積もりすぎることがある。これが自分の傾向なのだ。だから何も行動できない。すべての行動が恐ろしく感じる。

しかし行動を何度も繰り返して習慣づけてしまうと、自分の思った通りにはほとんどならないことに気づいてくる。外を歩いて散歩していると後ろ指をさされたり、とんでもない事件に巻き込まれたり、スナイパーにつけ狙われることもないということが滅多に起こらないということがわかってくる。それは自分がこれまで何千何万と外に出て近所の安全を体感してきたからだ(ゼロとは言えないが起こる可能性は限りなく低い)。

行動の行き及ぶ範囲と影響について、これは起こりやすくこれは起こりにくいという整理が自分の中でなされてくる。そして試行を繰り返すうちに自分の予測と結果が段々とあってくるようになる。そうなると次もまたこうなるだろうと考えて、やっぱりそうなったと思うようになる。それができる領域を広げていくと、自分はいつだってそこに行けるのだろうという思いがする。

自分の中で【料理】というものが不安の対象になっている。とにかく台所に立つのが恐ろしく、焦がしてしまうのではないか、具材を変に切ってしまうのではないか、配分を間違えて味を悪くしてしまうのではないかということを考えているうちに、自分はもう料理はするまいと思って結局はコンビニ弁当や冷凍食品を買ってしまう。

そう思うのは自分が料理をしてこなかったからだ。だが自分はこうも思えている。料理をしていくうちに、自分の行動が行き及ぶ範囲と影響が見えてくるだろう。そしてそのレンジには自分が今思っている以上の許容範囲があり、そこに至ることは簡単なことだと。なぜそう思えるのかというと、知識として人が料理をすることに対する事前情報があったからということもあるが、自分がこれまでやってきた様々な行動の結果がそうだったからということが大きい。

おそらく自分は目隠しをしながら、いきなり135度右の方向にある的の中心を正確に射抜くということをやらなければいけないと感じている。だが実際にはいきなりそこまでする必要が無い。目隠しはつけなくてもよく、的の前まで歩いていっていい。おそらく料理の許容範囲というのもそこまである。

とはいえそれがすべてだということでもない。許容範囲があるということと、クリティカルなレンジがあるということは同一ではない。複雑かつ難解な条件を満たしていなければ出せないものがある。自分の創作では常にそれを目指している。だがそれがあらゆる方面について常に絶対達成できなければならないということはない。自分は自分を追い込みすぎて許容範囲の広さに盲目になっていることがある。

自分はもっと適当にやっていい。おそらく個人だとそれができる。これが他人を巻き込むとなると無駄な完璧主義が芽生えてくる。他人に迷惑をかけられないというのが至上の鉄則になっている。自分の失敗は相手の迷惑になる。しかし失敗することでしか人は多くを学び得ない。自分が仮に上司の立場にあるとしたらこう言うだろう。失敗したこと自体は大した問題ではない。問題なのは失敗を回避しようとしないこと、失敗から何かを学ぼうとしないことだ。

このことを自分自身にも言い聞かせる必要がある。経験によって自分の行動の行き及ぶ範囲と影響が分かってくる。それまでは何度も失敗していい。ただし、時にはそれが通用しないこともある。

例えば危険な薬品を予め定められた手順なしに用いて実験を行ったり、命綱なしにはるか上空の鉄柱を歩くとなれば失敗は致命的となる。そうした時には経験ではなく知識によって事態の深刻さを評価しておくことが重要になる。

もしそうでないならばそこにはいくつかの許容範囲があるはずだ。その範囲に自分の結果が至ることを許すことが大事だと思う。満点とは言えないがそこそこ良いことだってある。それを受け入れることは妥協であり、自分の中の進歩を停滞させる。しかし完璧しか認めずに自分を追い込んだ結果が挫折と燃え尽きだとしたら、妥協というのは自分を生かす知恵でもある。自分は完璧を追求したまま灰になる道もあったが、自分は自分の不完全さを許すことで生きながらえた。

すべてを同じように完璧に目指すことはできない。自分という限られた資源を使ってどこに時間と労力を注いでいくか、それを考えなければならない。ある分野には全力に近いものが注げるだろう。しかしその分他の部分は手を抜かなければならない。さもなければ自分が持たないだろう。