人生

やっていきましょう

自分は直感に従う人間だ。しかし直感が時として自分を間違った方向に導くことがある。

例えばapexをしていた時、味方が一人ダウンしたとする。その味方は蘇生を待っているが近くに敵が大勢いる。こんな時自分は味方を蘇生すべきだと瞬時に判断してしまう。逃げるべき時でも蘇生を優先させてしまう。なぜなら直感がそう示すからである。

ゲームの開発をする時、何か天啓を得たようにイベント開発に着手することがある。大抵それは面白いアイデアで、実現性もある(直感とはそういうものだ)。しかしそのために何週間も開発に取り組み続けることになる。ゲーム開発の上では必ずしも直感が有用であるとは限らない。

直感は理屈を超えている。どうしてそれを思いついたかは分からない。しかし思いついたからには実行せずにはいられない。なぜならそれがベストなアイデアだと思うからだ。

以前直感で痛い思いをしている。直感は良くも悪くも、その当時の自分の見識から生み出される。その直感の産物を素晴らしいとアイデアだと思うのは、自分がそれを面白いと思う程度の見識しか持っていないということの表れである。嫌味な言い方だが、そのことを自覚してなければ、後々恥ずかしくなるようなものを生み出してしまう。

直感とは自分の常識の中から生み出される外れ値に強烈に引き寄せられる誘惑に他ならない。その結果として異質な何かが生み出され、大抵それは思考の練度が低い産物である。

しかしだからと言って直感をすべて否定してはならないと思う。直感から生まれるものは単なる思いつきでしかない。しかしその思いつき、外れ値に対する強烈な誘惑がなければ、アイデアは平々凡々、既存の型を模倣するだけの作業になってしまう。だから自分の直感は否定してはならない。

しかし直感以上に重要なのが直感を分析する忍耐力である。アイデアを思いついたらそれを分解し、すべて理屈で説明できるようにしなければならない。この練度が低ければアイデアは活きてこない。

ウディタ上でアイデアに導かれる労力が1だとすると、この吟味の労力には9かかる。それだけ重要な工程であると思う。

例えばこの前作ったアクションゲームについて考えてみる。キーを押せば主人公から弾が発射され、主人公の向いている方向に直線的に進んでいく、弾が敵に当たるとふっとんで面白い、というようにコンセプト自体は単純だ。

しかし実際にそれをどう形にするか、ということになると話は変わる。キーの入力判定、主人公の向いている方向の判定、弾を所定の位置に呼び出すためのx,y座標判定、当たり判定、討伐数のカウント、それらの関係の上で変動する変数の数々など、それらを自分の頭で理解して、最低限システムがどのように動いているかを理解していなければならない。

自分でやってみて分かるが、これがなかなか難しい。テレビゲームで遊んでいる時は体験に没入して気付かないが、作る側の視点からすれば細かい要素の合理的な結合の集合体であることがわかる。