人生

やっていきましょう

他人を内面を抉るような悪口が書きたいという欲望がある。言葉の鋭さで他人のメンタルをズタズタに引き裂くような表現を求めている。

ある種のインターネットオタクにはそのような傾向が見られる。相手を「論破」し、言葉の喧嘩を通して自身の正当性を確かめたいという欲望である。鋭利な刃物で相手の心を突き刺し、再起不能にさせるほどの言葉の鋭さ。その戦いの勝者になることによって自分は他者に優越する。それによって自身の劣等感は消化される。自分もそんな人間の一人だった。

こうした内面が形成されたのは、自分がインターネットで悪口を受けて育ってきたからだろう。いじめっ子がかつていじめられっ子だったように、親に虐待を受けていた子が親になって虐待するように、自分がかつての自分を否定しようとして同じ道をたどろうとする。小さい頃からネットで心ない言葉を浴びせられて、自分の性格は皮肉を好む冷笑家になった。そしてそれは今でも続いている。

昔の自分は今以上に酷かった。自分の冷笑的態度が絶対的に正しいと信じていた。自分が皮肉を思いついた時には、何かとんでもない発見をしたように思った。自分が見出した皮肉を回りの人間が克服できないのを見るのが楽しかった。性格の悪い人間だった。

しかしいつからかその性格が180度回転する。自分が勉強して世の中のことがなんとなく見えてくると、自分の見識がいかに狭く浅いものかということが分かってくる。自分の知っていること以上に知らないことが溢れていることが分かる。そうなると偉そうに冷笑する気にもなれない。自分は何も知らない。自分がこれまで冷笑してきた藁人形の他者が、今度は恐怖の対象となって一斉に襲ってくる。

自分は何も知らないただのチンピラだった。自分が他者に抱いていた悪意は、そのまま自分に返ってくる。適度な冷笑の鋭さを纏って、自分自身に。いつしか冷笑で自傷するという術を覚えた。罪悪感という言い訳で言葉の暴力を肯定し、自分自身のメンタルに突き刺すことでかつての自分を許されようとした。

自分自身を肯定するためには自傷をしなければならない。それはナイフによるものではなく、言葉による傷でなければならない。自分は痛みに酔いたいわけではない。他者に対する憎しみ(すなわち、悪意ある表現を洗練させたいという欲望)と皮肉屋である自分に対する憎しみ(すなわち、皮肉屋であり続ける限り自身は空虚であり続けるということの自覚)、これら二つが互いに両立し併存する道を見出そうとした。そうして出した結論が、冷笑そのものである自分を冷笑によって殺すことだった。

自分は皮肉屋を自身のパーソナリティにはできなかった。以前書いたように、ある属性の人間が置かれている状況を鋭い切り口から悪意を持って描き出し、内面にストレートにブッ刺さるような表現を生業にしているような人間は確かにいる。こうした人間を本来の意味での皮肉屋、冷笑家とでもいうのだろうが、もし自分がそうなりたいと思うのだとしたら、むしろその方が良かった。その人間は自己保身のために皮肉を行い、誰かを否定することによってしか自己の存在を証明(自己表現)できない虚しい存在であることに(当面の間)自覚を得ないまま、自身の否定の美学に酔うことができたのだから。

自分は皮肉屋である自分を心底憎んでいた。皮肉屋であるために自分はまっとうな人間にはなれず、なろうとしても心がドス黒い人間であることがどうしても隠せなかった。慣習があればその非合理性を冷笑し、妄想があれば面白いと笑い、無知があればニヤニヤする。息を吐くように冷笑する。無意識がそうさせる。

しかし皮肉に満たされて内心ほくそ笑んでいると、徐々に不安が襲ってくる。自分は彼らを笑うに値するほどの人間なのか?自分の笑っているそれは、自分自身にも当てはまらないと言えるのか?自分が同じように皮肉の対象になったとしたら冷静でいられるか?自分の冷笑は自身の能力的限界の投影ではないか?

これらの問いを自身にぶつけて耐えることのできる強度というのは、結局は自分が物をよく知り、表現の鋭さを高め、何より皮肉という暴力を他者のみならず自身に向け続ける覚悟と根気を培わなければ得られない。自分の見識の低さゆえに冷笑ができないのであればそれは克服する。克服したかつての自分は自虐と冷笑の餌食となって報われる。そうやって自己否定を通じて自身が肯定されていく。しかしそんなことが自分にできるのか。自分は既に自己矛盾に耐え切れず人格崩壊を起こした。自分が無能であることが明らかになったことで自身の冷笑神話は崩れた。それはそれでよかった。だが以前のように自分が努力することができなくなった。自分は今無気力になっている。

冷笑が自分にとって意味をなさなくなったとしても、冷笑という思考のパターンは依然として残っている。何をやっても冷笑につながる。そんな自分が嫌だ。自分はもっと自分が肯定できる何かのために時間を費やしたい。そんなことを考えていると自己没入することの虚しさと、その感動をしらない自分の虚しさに気づいてしまう。それが面白いのでつい冷笑したくなる。

ところで自分は何をしているのか。皮肉を皮肉ると言っていたが、結局のところ、自分は否定によってしか存在証明ができないということには変わりない。自分を捨てるという意気込みは良いが、捨てた後自分が自分を得たとして、その自分を守るために自分は皮肉と戦えるのだろうか?主観の持つ偏り、感情の持つ不合理さ、これらを散々バカにしてきた自分が、それらをすんなりと受け入れることができるのか?

自分は何となくわかった。自分の人格が空虚に満たされいつまで経っても何にもなれないのはこういうことだ。否定によってしか何かと関わることができない。自分の好意を自身の人格と結びつけることができない。何がしたいかが見えてこない。それが自分であり、そこからしか歩みだすことができない。だがそんなことは不可能ではないか?