人生

やっていきましょう

哲学とは何かということを大雑把に考えた時、本人にとってのゼロの状態から何らかの前提を自ら構築していく作業だと思った。自分は専門家ではないから何とも言えないが、自分の理解はこうだ。

哲学というのは基本的に一旦何かの前提を取り払って、前提を再検討したり違うものに置き換えたり、あるいはまったくの前提抜きに物事を捉え検討することであるように思う。その上で本人にとってのゼロの状態というのは、どこまで前提を取り払うかが任意であるということを指している。例えば人間の心理について考える時、心理反応を引き起こしている脳の科学反応について問題にするか、心理反応そのものに注目するかで前提の範囲が変わってくる。共同体の治安を守り統制を維持するという必要から法は生まれたが、誰がどのように定めてきたかという「過程」を問うのと、何をもって法とするかという「根拠」を問うこと、そして現行法はどのように定められているかという「分類」を問うことは、一見法という前提を共有しているけれども、その範囲によって扱っている問題はまったく違う。

この限りにおいて、哲学という言葉は高度な専門性を持つ分野にも、きわめて単純でシンプルな連想にも、あるいは汎用性のある自己啓発の常套句にもなりうる。子どもが自分ってなんだろうと考えることにも哲学という言葉を充てることができる。極めて多義的で様々な用途に使われてきた言葉だからどうとでも解釈できるが、その混乱は「自分にとって」どうなのかを問うことで一旦収束することができる。

自分は教養以上の哲学史に通ずる人間ではないから、過去の学者が何を問題にしてきたのかを理解することも整理することも難しい。自分にとって哲学というのは勉強嫌いの自分が暗記から逃げる良い逃げ道だった。とりあえず哲学の傘をかぶって前提を疑っていれば、それだけで賢いポーズを取ることができた。

だが最近精神的なダメージを負ったことで、哲学的に(おそらく正しい意味で)自らの前提を再構築しなければならなくなった。その時自分は真に正気を失いかけていたが、皮肉なことにこの逃げ口実の哲学的習慣が自分の身を救った。自分は自分で前提を考える癖がついていたので、何かの超常現象に信仰を得たり、突飛な妄想をただちに許容することはなかった。自分は自ら前提を構築しそれを評価し続けることで、かろうじて正気を保つことができた。

しばらくこの習慣を続けていると、あることに気がついた。それは学習というものがこの習慣によって肉づけされるということだった。自分は当初この習慣の目新しさに驚き何度も思考を繰り返していたのだが、しばらくするとまったく思考を紡ぐことができなくなった。それは任意の前提を再構築する上で、自分が持っている(あるいは参照できる)視点と知識があまりに少なすぎることが原因だった。インターネットとは何かと自問しても、なんかpcで見ることができる楽しいもの、遠くの人と繋がれるもの、以上の説明をとっさに考えることができなかった。別にそれは自分がバカだからという話だが、問題はそれが原因で創作のアイデアが膨らまないということだ。

この時自分は勉強というものが無意味な記号と無意味な分類の羅列を呪文のように覚えるものではなく、まさに自分が必要としたこの前提の深度と広がりを学習することだと分かった。勉強というものはある前提に対する妥当な答えを学習する過程だった。例えば英語であれば英文法、ゲームであれば操作と仕組み、山登りで言えば天候調査と道具の準備、といったようなことだ。これらをすべて自力で見出そうとするのはほとんど不可能に近い。しかし自分はそれをやろうとしていた。

人間はいずれ失敗するが、自分の場合それは思ったよりも早く訪れた。そこから再起を図ろうとしてまた失敗した。自分の人生は失敗しかない。しかし失敗を繰り返すにつれ、失敗に対してどのように反応すれば良いかが段々分かるようになってきた。失敗に対する検討、すなわち反省とは、単にそういうポーズがかっこいいとかそういうことではなく、自分の行動やおかれた状況に対する評価を行うことによって失敗の再現性を減らすということであった。反省とはそういう前提で行われるものだ。自分はこれを学習によって理解した。

この前提を理解することによってはじめて反省というものの前提を疑うことができる。今自分は偉そうに反省の優れた点を公言したが、反省というものが任意のものである以上、それが原因で何らかの点において不利が生じることもある。例えばひ弱な青年が自分の無力に対する反省からジムに通いたくましい筋肉を得て力こそすべてを解決するという答えに至ったが、自身の過去やコンプレックスに対する否定からか、今度は自分がひ弱な人間に強く当たるようになった。

はたしてこれでよかったのか。反省が万能であるとするならば、このような変化に対しても肯定せざるを得なくなる。これは反省の仕方が悪かったのだと言うなら、どのような反省が良くて悪いというのか。ここで扱うべき点は「任意の行動に対する失敗の再現性を減らす」という効能のみであり、それをどう使い、それをどう評価するかは人次第である。ここから反省は属人的なものであるから扱いが難しく、こうした暴走を予防するには自分が今何をどうしようとしているのかを問い、反省の意味を考え続けることだと考えることができれば、反省に対する理解をより一層強化できたことになる(これさえも恣意的な評価だが)。とはいえこうした視点を反省の試行錯誤という自身の反復を経験することなしに得られたとは到底思えない。そういうポーズは取ることができるが、自分で意味が分かっていないので単なる逆張りにしかならない。

自分にとって哲学とは何なのか。それは前提を再評価する試みである。自分はこの行為によって物事に対する洞察を得る。当然自分の洞察など浅い知識の上に成り立っている掘っ立て小屋に過ぎない。しかしそんな張りぼてであっても、物事に対する多少の理解は増している。それが自分にとって利するのは、当然コンプレックスという問題もあるが、今はそれ以上に創作に対する独創性を獲得する上で有用であるという期待があるという点が大きい。バカげた発想というのは物事を程よく知った上でズラした方が面白いと個人的には思っている。それが引き出しの多さと配合の多様さに繋がるからだ。