人生

やっていきましょう

702日目

会話が困難であるという問題に何年も煩わされてきたが、以前の記録で述べてきたようにそれは意思疎通能力の不足であるというよりは、おそらく会話に対して妄想的な信念を抱いていることに起因している。

自分が抱いている最も強い妄想は、自分の発した言葉が相手に誤解される(正確に理解されない)のではないかということだ。自分は対人関係において誤解されるということを何よりも恐れており、それを回避するために会話はどこまでも可能な限り情報が正しく伝達されなければならないという強迫に近い信念を抱いている。

この信念が次の問題を引き起こす。まず第一に会話に対して完璧主義になりすぎるということだ。会話をする前にリスクを引き起こしやすい話題や言葉を極力回避しようとするので、あらゆることが即誤解に繋がるように見えてしまう。それで結局何も言わず、何も表現せずに終わることが多い。

第二に、自分の理解力に対してどこまでも懐疑的になるということだ。自分はしばしば、情報が安易に曲解されてしまうのは自分の理解が不十分であるためではないのか、という不安に支配されやすい。情報が正しく伝達できるほど自分は表現すべきものの中身も、表現する技法もよく理解していないのではないかと考えてしまう。そのため、理解が十分なものになるまで会話を極力避けようとする。

これらの妄想の根源はどこから来るのかといえば、明らかに会話経験の不足である。他者とコミュニケーションを取ったことがあまりに少ないので、数少ない経験(それもほとんど失敗した経験だ)から会話の全体像を誤って想定し、過剰な不安を抱いているということである。自分の理解、自分の解釈が否定された記憶しかないので、意志疎通ができたというイメージが全くできていないのである。

積極的に会話の数をこなし、会話というものが実態の掴めない霧のようなものから、具体的な対処によって理解し解決できるものになる必要がある。そのためにはまず根底の認識の部分で、自分は会話に対して妄想的な信念を抱きやすいという傾向を受け入れなければならない。その上で、自分の意思疎通がどの程度相手に伝わっているかということを観察し、意志疎通ができないのは自分の理解が欠けているからか、自分の表現が誤解を招きやすかったのか、ただ単に相手が勝手に曲解しているだけなのか、それともいずれかの複合か、などということを考える必要がある。

実際そのようにして会話というものを捉えてみると、実は案外自分の発した情報は伝わっているということが分かる。それは自分の不安が求めているような完璧な伝達ではないかもしれないけれど、アバウトな概観を掴ませる程度のことではそこまで怯えるほどに自分の情報伝達力は脆弱なものではない。こうした理解を得られたのはやはり経験を積んだからだと言えるのであり、経験が妄想的な信念を破壊するという確信がさらに得られることとなった。

自分はこれまで経験というものが発想の固定化につながると考え忌避してきた。しかし何事も経験を積まないことにはその実態が掴めず、理解が妄想的になる。なぜなら経験を欠いた理解というものは情報的であり、とりわけ自分のような理解力にかけた人間にとっては、情報というものは解釈によって事実と異なる認識も可能にするからである。経験によって情報はより現実対処に適した背景を持つようになるということを自分は十分に理解した方がいいだろう。これは会話に限らず、あらゆる困難にも応用できることである。