人生

やっていきましょう

1075日目

他人の作品に嫌悪を覚えるようになった。これを嫉妬や憎しみと呼んでいいか分からないが、とにかく他人の表現が受け入れられなくなってきた。

ふと思ったが、これは自分の老化なのだと考えた。自分に身近で関心のあるものには安心を覚え、それ以外のものには嫌悪を持つ。視野が狭いまま固定化され、同じことを反復することしか能が無くなる。

とはいえ、その傾向に抗ってみせても意味がない。嫌悪を感じるものを無理して取り入れたところで後に残るのは苦痛と違和感だけだ。実際その無理に数年間費やしてきたから分かることだ。ここは一旦置いといて、なぜ嫌悪を覚えるかを考えた方が良さそうだ。

注意深く観察してみると、自分が嫌悪している作品の大半がかつて自分が好きだったものであることが分かる。自分は決して認めようとしないが、自分が小中時代に素朴に摂取していた文化、高校時代に迷走していた頃に没入していた文化、大学時代に築こうとしていた復古的な価値観を肯定するような文化、あるいはクリエイターによる自己言及的な文化、もっと言えば挫折してから必死に取り入れていた厭世的な文化、それらすべてが今では嫌悪の対象でしかない。しかしかつてはそれを受け入れていたのだ。

自分は常に過去の自分を捨てて生きてきた。過去を嫌悪し、修正したいとさえ願っていた。だから自分を肯定できる人間がいるということを信じられなかった。そうした人間を見るたびに嫉妬と羨望、あるいは失望と怒りを感じる。

だがその先にあるものは何もない。切り離せない過去に対する否定的な感情が刹那的に生まれては捨てられていく。そして結局何も残らない。

もう少し詳しくみると、自分が嫌悪しているものの多くが他者の存在を感じさせるものであるということが分かる。数年間経った今でもTF2が支配的な地位にあるのは、自分が長年主体性を持って関わることができたからだ。

一方他者との関わりの中で、自分の関心を増幅させる(もしくは維持させる)に至らなかった価値観は軒並み否定されている。特に自分は本当に好きではなかったのに、他人との関係維持のために仕方なく行っていたという自覚のあるものは、本来そこまで嫌いでもなかったはずなのに激しい憎悪と嫌悪を抱くようになってしまっている。いずれにせよ、自分の中で主導権が握ることができているものは好ましく、そうでないものは嫌悪を抱く傾向にある。

ところで自分が思っている他者というのは本当の意味での他者ではないように思う。それは自分の主体的な関わりを阻害し否定するような他者という、半ば妄想に近い存在である。

この妄想は不思議なことに海外の文化に対して抱かれることはほとんどない。抱くのは日本の文化、厳密に言えば日本語で表される文化である。しかしここからただちに日本に対する否定的感情を類推するのは間違っている。自分は日本のいくつかの文化を好ましく思っている。では一体何が問題なのか。

問題は日本語で書かれたもの、特にネットで書かれたものから不安要素を連想してしまっていることである。自分は書かれた本から嫌悪を感じたことがほとんどない。それらが自分に影響を与え、見方によれば侵犯されているにもかかわらずである。

自分は大前提としてネットから直接文化的な影響を受けている。そしてその大半を書かれた日本語から受けている。この日本語で書かれた文章、匿名の影から好き勝手書かれた文章が、自分の他者という妄想の根源であるように思う。

多くの著名人がネットでの心ない言葉によって傷つきおかしくなってしまったという例を自分は何度も耳にしている。ある人間はアンチコメントに傷つくあまり自分を擁護する言葉以外のものをすべてアンチであると断定し、またあるクリエイターはネットの評価に怯えるあまりネットのコメントに対する「答え」としてしか自分の作品を捉えられなくなってしまった。当然自分のように、強迫的な自己嫌悪に苛まれた人間もいるだろう。

そうした人間が執拗に海外を持ち上げたり異性を否定したりするのを見ても自分は無理はないと感じる。彼らにとってはそこが避難基地であり、自分がまっすぐ生きられる場所なのだ。自分が海外文化に逃げているのもおそらく同様の理由だろう。

ごく稀に送られてくるapexの暴言を除けば、今ではまったくと言って良いほど心ないコメントを受け取ることはない。そうした環境を構築し、幸いなことに維持されているからだ。しかし妄想は今でも残り続けていて、何かあれば他者に対する嫌悪が甦ってくる。自分が何かを好きになろうとするとき、必ずこの妄想が邪魔をする。

こうした妄想への対処法は、まずそれが妄想であると認めた上で、それらの妄想によって駆動される不安を連想させないことである。日本のネット文化から距離を取るというのはひとつのやり方だ。あるいはそもそもインターネットをやめることを考えても良いかもしれない。

しかし嫌悪すべきは日本のネット文化ではなく、ネット文化が生み出した自身の妄想である。自分が妄想を妄想と正しく認識し、事実と解釈が一致しないことは頻繁にあるということを自覚できている限りは、自分は妄想に取り込まれることはないだろう。他者が原因で不安が生じた際にはこのことをよく思い出すといい。

自分は他人の作品に嫌悪を覚えると書いた。その原因は彼らの作品ではなく、彼らの作品の中に宿る自分本来の関心にあった。彼らの作品の中には、自分が妄想との戦いの中で失われていったいくつかの関心が残されていた。それを見るたびに自分の中に失われたものが思い出され、未だにそれを持っていられる人間たちに嫉妬を抱くのだった。

同時に自分から何もかも奪っていった他者(という妄想)に激しい嫌悪を覚えた。だから他者性を感じさせるあらゆる作品に拒絶することしかできなかった。今でもこの傾向は治らず、おそらく一生そのままだろう。しかし何も打つ手がないというわけではない。

第一に妄想を妄想と認識し事実と解釈の区別をつけるということ。第二に嫌悪が妄想の産物であったとしても今自分が感じている嫌悪を無理に否定しないこと。第三に好きか嫌いかは0か100ではなく、物事にはその両面があるということを認めること。第四に他人の関心を自分の関心以上に優先させないこと。少なくともこれらを実践すれば自分の悪い連想は収まり、自分の価値観が以前よりも確立されてくるだろう。