人生

やっていきましょう

数か月ぶりに酷い不安を起こしたが、風呂に入ってようやく安定した。不安を抱いたら悪い連想を止めるということは頭では分かっているが、なかなかその渦中にいると制御が難しい。

原因はやはり将来に対する不安。生きるにも自殺するにも決断を先延ばしにしてきた後悔。近いうちにどうするのか決断しなければならないだろう。自分をどうするのかを。

とはいえ最近はここまで酷くなることはなかった。例のオンラインゲームで自分の目標を達成したあたりからこうなった。倒すべきボスを倒し、強化アイテムをMAXまで完成させ、後はレベルを255にするだけ。255と言ったが、実質自分の中では250で終わっていた。だから空虚感があった。自分は振り出しに戻り、再び考えなければならなくなった。

再び自分に問う必要がある。自分はどうするのか。自殺を選ぶなら決意が鈍らないうちに方法と場所、そしてそのタイミングを選ぶ必要がある。生きる道を選ぶならこれまでのような惰性ではなく、主体的に生きる覚悟を持つ必要がある。

自分は不安になりながらも真剣に考えたが、どうにも自殺をすることへのイメージがはっきりと見えてこなかった。自分が自殺をする理由としては自分がどこにも存在せず、自己の回復が望めないことへの失望があるだろうが、それがただちに自殺をする理由にはならない。動機としては弱すぎる。

たとえば自分の夢があり、自分が自分であるために懸命に生きてきたが、それが叶わないことへの絶望から自殺に走るというのであればまだ理解できる。この世に何か大事なものがあって、それを失ったから自殺するという理由も分かる。本来あるべき自分に希望が見えないから自殺をする。それも分かる。だがいずれも、自分の場合と少し勝手が違うように思う。

厳密に言えば、自分は自殺よりも劣等感の解消を求めている。自分が無能であるということの絶対的な前提から解放されたいと考えている。自分が何かに対して効力を発揮できていると自認できている状態が続けば幸福を感じる。それが最近自覚できなくなったので不安に陥ったのかもしれない。

自分がオンラインゲームに没入していたのは、自分のペースで着実ながら自分を前進させ、その進歩の効力を実感できたからだ。誰かと比較せず、自分自身が定めた目標に従って行動していたからだ。そこには壁が立ちはだかり困難があったものの、試行錯誤の末に突破したことへの充足があった。

これを自分の人生に求めれば良い。再び現実に返って不安を抱いているのは、以前のように他者(存在しない藁人形)と比較し自分の劣等感が刺激されているからだ。そうではなく、もはや他人の人生と自分を比較せず自分が可能な範囲において進歩し続ければ良い。

頭では分かっているが、自分の劣等感はもはや病的である。自分は無能だという前提は宗教的でさえある。論理を飛躍しているが、それに自分は納得しているのである。自分が無能でなければおかしいのだ。そういう世界で生きている。

自分が劣等感に支配されそうになったときはこう言い聞かせる必要がある。自分は自分の選択を常に悪いように解釈している。そのように考えているのは他ならぬ自分であるはずなのに、あたかもそれを他者が考えているように思い込んでいる。ある面ではそうかもしれないが、しかしすべてがそうであるわけではない。自分が何を選んでも最悪の結果にしかならないということは間違っている。実際に経験してみてどの程度最悪か、またはどの程度良好なものかが分かってくる。自分は何も行動に移さないから0か100の不安を抱くことになる。しかし自分がMMOで何十回とボスに挑んだ後と前では、その懸念はどれほど異なっていたかを考えるがいい。初めての時は不安の渦に飲まれていて何が何だか分からなかった。しかし何度も繰り返すうちに「何に注意をしなければならないか」が分かってくる。負の感情は漠然とした不安から具体的な警戒へと推移していく。そうなってから自分はどれほど失敗を減らせたか。

自分の劣等感は、経験不足による見積もりの過剰と定義できる。何かしら行動に移し失敗を蓄え続けていれば、自己評価と現実の乖離が次第に収束していく。自分を大きく見積もりすぎることもなければ、低く見積もりすぎることもなくなる。自分は絶対に失敗したくないと思うべきではない。泥臭くどんどん失敗すればいい。どうせ自分には誰も期待していない(これは自分に与えられた唯一の利点であると思う。多くの人間は社会の関係に拘束される中ですり減っていくが、自分にはその社会の期待に応える理由が存在しない。自分は孤立した異常者であることによって図らずも自分の領域を得ている)。

これらの理解はオンラインゲームから得た類推でしかない。オンラインゲームがユーザーの成長を実感させ、自己効力感を獲得させるよう「デザインされた」ものであるという前提を忘れてはならない。またどんどん失敗しろと言ったが、絶対に失敗できない立場というものも存在する。その責任から自分が完全に独立していると考えるのは早計すぎる。しかしそうであるにせよ、それらを自分が委縮する理由にしてはならないと思う。責任は自覚する。失敗は回避する。しかし失敗は当然起こりうるものと考え、ダメージを最小限に抑え、ミスを減らしていくことが自分にはできる。それによって、不安に飲まれて何もできなかったときの自分よりも、前進することができるはずだ。