人生

やっていきましょう

659日目

ランクマッチでの死因のひとつが、詰める時はどこまでも詰めてしまうところにあるということに気がついた。

出来るだけ味方が自分を射撃でカバーできる場所で戦うことが理想だが、自分が相手のアーマーを割ったとき、何も考えずとにかくひとりで詰めてしまい、味方のカバーが届かないところで撃ち負けるというパターンが多かった。

どれほど自分が優位であれ、孤立すれば負けるという意識を持つことが重要だと思った。孤立して良いのは、例えば味方と自分で挟み撃ちをするときに、自分の側に敵がいないと判断できる場合など、明確な目的や根拠があって、かつ確実に自分の安全を確保できる場合に限る。何も考えず特攻するのは一番避けなければならないことだ。

 

658日目

ランクマッチですぐに死ぬ原因のひとつに、遠距離の敵に攻撃しないことがあるということが分かった。

自分のチームが敵の攻撃を受けた時、味方は大抵攻撃をしているが、自分は逃げ道を探してその場をウロウロするか、自陣の背後を取られないように誰もいない裏側ばかりに注意を向けている。そうでなくても、自分の方に銃撃が集中するのを恐れて敢えて撃たないこともある。

攻撃しなければ押されるのは当たり前だ。自分がどれほど下手で足手纏いになりそうだと思っても、攻撃することで敵の接近を抑えることができるということを忘れてはならない。その影響を実感できないなら自分が敵チームから撃たれた時を考えみるといい。決してまっすぐ近づこうとは思わないだろう。

攻撃を恐れるべきではない。銃声が鳴り漁夫の利狙いを惹きつけることになっても恐れず撃つべきだ。なぜなら自分には味方がおり、急襲を受けてもある程度は対応できるからだ。味方が銃撃している時に敵を恐れて自分は何もしないというのが一番駄目だ。そうするくらいなら考え無しに味方と同じ敵をひたすら撃っていた方がいい。

 

657日目

ランクマッチの大敗の原因は射撃中にエイムを合わせていないことが大きな原因であることが分かった。

PS4ではPCよりも敵に対してエイムアシストが働くようになっている。照準を相手に近づけると自動でエイムが吸い寄せられ、敵に当てやすくなる。自分はそのアシストに甘えていて、銃撃中にカメラを合わせるという作業を全く行っていなかった。これまで移動のみによって敵が照準の中央に来るようにしていたが、細かい部分での創作を怠っていたため敵との戦いに撃ち負けていた。

偏ったエイムを調整するには射撃場での練習が不可欠だ。右手のスティックを動かしてカメラを敵に合わせながら銃撃する練習を行う必要がある。特に射撃中、動く敵に対してカメラを合わせ続けられるように、細かい操作に意識を向けることが重要だ。

しばしば忘れがちになるが、射撃というのは敵に向かって何となく撃つのではなく、何に対して、どこに向けて、どのタイミングで撃つかということをはっきりさせ、その狙い通りの操作を行うことが極めて重要になる。的確な判断を行い、判断と操作を一致させることができるまで、射撃場に籠って練習する必要があるだろう。

 

656日目

1日中花粉が酷く作業に集中できなかった。マスクをして最小限は抑えたが、ティッシュ箱は全部使い切ってしまった。

辛いときには頭痛がして意識がはっきりしない。そういう時にapexをやると大抵負けてしまう。自分の不調、とくに花粉の影響でプレーに集中できないことが明らかな場合、無理な作業は控え症状が治るまで休むことも考えた方がいいだろう。

またその場限りの思いつきの対策だけでなく、事前に花粉を予防することもまた重要だと思う。室内外を問わず常にマスクを携帯し、換気は最小限に抑え、うがいや洗顔を定期的に行う。何より規則正しい生活が予防となるので、これまでのような2時や3時に寝る生活から0時に寝る生活に戻す必要があるだろう。

654日目

ランクマッチで400RPを溶かした。一度自分のやり方を見直す必要がある。連敗の原因をその時の自分の体調に求めることはあまり解決にならない。不調が原因であるにしても、問題はそれによって引き起こされた自らの不適切な行動の方にある。だからその解決を目指す必要がある。

不適切な行動はいくつかある。まずは味方との連携が取れていないことだ。序盤で負ける時はほぼ必ずと言っていいほど各々が孤立し、1人のところをダウンされている。その後は数的有利のゴリ押しで負けるということが多い。

野良でランクマッチを潜ることが奨励されていないのは、ほとんど連携ができず情報共有が不完全なまま終わることが多いからだ。誰もピンを置かず、誰もピンに従わず、敵とどう戦うかという方針が曖昧なまま戦闘が始まる。自分は何をどうしたらいいか分からず、気づいたら倒されている。

相手が悪いと言うのは簡単だが、相手もピンに従えない状況にあるから従えないことだってある。自分ができることは自分がピンを積極的に置き、味方に情報を提供し続ける他にない。初めから諦めてピンを置かなければ結局自分が不利になる。

かといって味方に合わせすぎてもいけない。勝手に動く味方とどうにか連携しようとして、自分のやり方を曲げてでも常に味方の行動に従いがちになる。だがこれもまた数ある死因のうちのひとつになっている。味方がほとんど情報を提供してくれない状況で、味方の不確実な行動に合わせようとするのは不可能に近い。そのことに頭がいっぱいになっていて、周囲の敵に気づけないこともある。

野良戦で何よりも重要なのは、いかなる状況であれ自分の判断とやり方に従うことだ。当然連携をする必要はあるが、敵の位置が把握できていない状態や、フルパーティ対自分1人になることが明らかな場合、安易に味方に近づくべきではない。

どれだけ偉そうなバッジを掲げていたとしても野良PTで味方に期待してはならない。場所取りを味方に任せるとか、退く判断をすべて任せるといったことはせずに、自分が必要だと思ったらすぐにピンを押す。場合によっては自分が先導することも考えなければならない。強い仲間がいるから自分は何もしなくていいというわけにはいかない。

 

 

653日目

この数日間記録を書く動機が無かった。何かを記録しなければならないという切実な必要を感じなかった。それはすなわち自分の人生に対する切実な思いを失いつつあるということでもある。もはや記録は自分に意味をなさない。

こう思い始めたのは自分の中にある種の安定を得たからだと思う。問題意識を、問題そのものを放棄したことによる安定、一時的な仮初の安定だ。自分はそれに屈した。それは何かの決断によるものではなく、それらを曖昧にぼかし、自然の成り行きでそうなった。だから罪悪感というのもそこまでない。

一方で自分はこうも考えている。そうなることを恐れていたからこそ自らに記録を課してきたのではないのか。安易な平穏を得るためではなく成就困難な自分の理想を達成させるために、言葉を紡ぎ内省を重ねつづけてきたのではないのか、と。全くの事実だ。そうした悲痛の思いで自分は記録に取り憑かれていた。

だがすべては、それが何になるという思いに打ち砕かれる。自分が何かの意欲を覚えその成就のために行動する、まさにそのことが今ある惰性の安定を切り崩してでも達成しなければならないほどの価値を有しているのか。この問題について真剣に考えれば考えるほど、そうでは無いという結論が妥当であるように思えてならない。自分は生きて何かを達成する必要もなければ、価値を残す必要もない。何かが勝手にそうなるからそうなっているにすぎない。

自分の理想について触れておく必要がある。あまり思い返したくないことだが、自分は他人を克服したいという思いに長らく囚われていた。おそらく自分の価値観の根底には今でもこの思いが流れている。小さい頃から他人を極度に恐れ、自分の弱さに劣等感を抱いていたことが原因だ。

しかしそうした憎しみに近い感情も、よくよく考えてみたら意味がないことだと分かる。自分が他人を克服したことで、あるいは克服できなかったところで、何の意味があるのか。それにより自分は他者から賞賛を受け、自分の自尊心が高まるかもしれない。だがそれが何になるのか。あるいは自分が折れたことで自分の心は歪み、他人に対する憎しみや自分の不遇をますます募らせることになるかもしれない。だがそれが何になるのか。結局どちらに転んだところで自分の心には既に穴が空いており、もはや何も得ることはできない。

ならば何も無理をせず、成り行きに任せようと考える。これこそカミュの否定した不条理への没入であるように思う。ただ不条理に流され、人生の苦難に従順になる。結局自分もこの誘惑に駆られている。兎にも角にもそのことに自分が没入できるからだ。

思うに人間はこの人生の本来的な無目的さ、無意味さを直視しながら生きることはできないのである。今ある人間が自殺を行わずまだ生きようとしているのは、生物の本能としてもそうだが、自分が生きるに値するということ、あるいは値しないということを忘れるほどに生に没入しているからである。それが誤魔化しであれ何であれ、没入によって生存が自明であるという確信を我が物にすることができる。

問題は何に没入するかだ。記録を始めた当初は自分が生来渇望してきた他者への克服を純粋に達成しようとした。それこそ生命の危機にあり、自分の認識を根本から変える勢いで自らの思索を確かなものにしようとした。その自己改革は十分な没入を引き出し、気づけば1年が経っていた。

しかし自分は同時に確かな自尊心を得ようとした。それは他者の克服という先の問題とは別に、誰かと比較することなしにいまの自分を受け入れられるようになるということだった。結局自分は前者の問題以上に、こちらに没入することになった。自分は自分を極度に甘やかし、どれほど自堕落であっても良いと考えた。だから一切の社会的責任を投げ捨て、現実から逃げるようにゲームにのめり込み、本を読み、音楽を聴き、あらゆる映画を鑑賞した。

このように没入する恰好の言い訳が「人生に意味はない」という、もはや自分には聞き飽きた言葉である。何をしても他人は克服できず、自分の劣等感からは解放されないのだから、人生に意味がないということを都合良く持ちだして「自分は日夜apexにのめり込む。なぜなら人生に意味はないから」「自分は定職に就かなくてもいい。なぜなら人生に意味はないから」「自分は無能でもいい、なぜなら人生に意味はないから」と、自分が楽な方向に進む絶対的な根拠を与えている。

没入ができれば何に没入してもいいのか。まさにそこに自分の価値が試されているように思う。究極的にはそうだと言える。何をしようが自分で責任を取るなら勝手にすればいい。しかし本当にそれで良いのか自問する自分もいる。特に自堕落さに没入し、向上心を失いつつある自分を安易に肯定することには躊躇いがある。

自分は何かをする積極的な動機が持てないが、自堕落な生活を送り何もしない理由を人生の無意味さに求めたくはない。自分が生きると決断した以上、生きるに値する選択を行う必要があると思わずにはいられない。さもなければなぜ自分が死なないのかがわからなくなる。