人生

やっていきましょう

自分は表現をすることを恐れている。それは数年後に必ず後悔という形になって自分の前に現れてくるからだ。

自分はこの経験を何回も経てきている。中学生の時に書いたブログは高校生の頃に削除し、高校生の時に書いたブログはほとんど記事を削除した。浪人時代に書いたネットゲームの掲示板に書いた記事は、本当なら全部削除したいと思っているし、大学生の時に書いた小説もすべて消し去りたい。意地でも消さないでいるが、見たくないのでまったく触れず、記憶から消し去ろうとしている。唯一このブログの記事は消したいとは思わないが、3年前の記事を見る勇気はない。ゲーム開発も7年以上かかっているのは、半分は以前書いたストーリーの陳腐さを消すための作業である。

こうした自分の過去に対する激しい嫌悪は一体何なのか。いくつか思い当たる節があるが簡単にまとめると、要は自分の自尊心の許容ラインを高く設定しすぎており、その高さと、形として現実に残された過去の遺物の粗さとの間にあるギャップに耐えられないことが原因である。

例えば自分は絵を描いていた。おそらく適性があり、それを伸ばすこともできた。しかし今の自分は絵を描くことを憎悪している。絵描きとの関わりに嫌な記憶があったのも一因だが、それ以上に、自分の想定に反して時期をおいて見た自身の絵のあまりの凡庸さに耐えきれなかったのである。

自分は完璧主義である。自分の生み出したものはほとんど自分の納得を引き出すものでなければならない。しかし自分にはその納得を引き出せるほどの表現力がない。その事実を、過去の作品が冷徹にも暴き立てる。だからすべて消し去りたいのである。しかし消したところで自分が変わるわけではない。不都合な事実を消して元の「可能性のある自分」から自尊感情を引き出すだけである。そうならないように自分は戒めのために過去の遺物は消さない。

自分の過去に対する嫌悪とどう向き合えば良いか。ひとつの方法は、過去と現在は違うということを認めることである。当時の自分はその程度しか考えられなかった。見識の浅い人間だった。おそらく現在の自分も当時と大差ないだろう。

しかし現在と過去の明白な違いは、今は変えられるということである。絵が下手ならある程度今から上達できる。仮に些細な変化であっても過去の自分とは大きく違う。これは他のことにも言える。もしかしたら過去の自分より今の自分が劣っているかもしれない。しかしそうであっても、過去と現在は違う、今ここには現在しかないということを自覚し続ける必要がある。

自分は過去のトラウマが多すぎて身動きが取れていないが、現在というこの瞬間をもっと肯定すべきだと思う。自分はおそらく過去に生きている。そして自分には過去に対する憎悪しかない。そのために現在がまったくの無価値になっている。だが過去は存在しない。今自分がどうするか、ただそれだけが問題である。

 

 

言葉が自分の無理解に基づいて不完全な形で飛び出してくる。怠惰か無能か、今の自分にはそうするしかできないので限界を自覚しつつも言葉を吐き続ける。それが恐ろしい。

自分は何となく言葉を発している。その何となくが耐えられない。自分は自分が思っているほどに言葉をよく吟味し、適切な表現を努めているわけではない。少なくとも最近の数年はそうだ。曖昧な理解のまま、何となく何かを言った気になれる言葉を暗に選んでいる。

この問題に自覚的になれるのは数日に一度くらいである。日々毎日この欠陥について考えることはできないだろうか。それにはやはりブログの位置付けを考え直す必要がある。寝る前に意識がはっきりしない中でしぶしぶ書き上げる日課としてではなく、何かひとつでもいいから興味をひいたトピックについて、自分の理解をより定着させる機会として捉えるべきだろう。

 

 

自分の作っているゲームはゲームとしての面白さはほとんどなく、装飾や演出で誤魔化しているだけのものだと思う。やっていることといえば単なるお遣いゲームであり、たまに間に合わせのパズルが置かれているだけである。RPGというジャンルが制限している面もあるが、実際のところ自分の主眼は機能の面白さにはない。

何かもっと面白くできないかと考えたが、今から考えると永遠にゲームが完成しない気がする。だから今から新たな技術を取り入れようとするのはやめた方がいいかもしれない。

とはいえゲーム自体の面白さを追求できる余地はまだあり、自分はそれが戦闘の駆け引きやレベル上げにあると思う。キャラクターごとに特徴を持たせ、出てくるボスも一筋縄にはいかないようにすれば、陳腐であってもゲームとしては面白くなるだろう。問題は未だ4章でストーリーが完成していないということだが。

絵で思考し、表現するということが難しい。

例えばいま自分はゲームでダンジョンを作っている。ダンジョンの構造自体は問題なく思いつく。どこに目的地を設置し、どんなイベントを配置し、どうすればゴールにたどりつけるかを考えることはできる。

しかしダンジョンの装飾を考えることができない。どこにどんな飾りを置けば見栄えがするか?どんなマップにすればダンジョンらしくなるか?このビジュアル的な想像力が自分には皆無であるといっていい。

絵で思考をするにはどうすればいいのか。それは明らかに言語的な思考とは別種の頭を使う。自分は言葉というと音のつながりをイメージする。言葉の聞こえやすさに偏執的な傾向があるのは、自分が音で思考する人間であるからかもしれない。

しかし自分は以前絵を描いていた。その時自分はどう考えどう感じ、どう表現していたか。当時は絵が楽しくて、何も考えずに描いていたのを思い出す。何をどうしようとあれこれ考える必要がなかった。思いめぐらせば様々なイメージが湧いてきた。勉強を始めてからそのイメージは死んだ。

一旦論理から離れてみると良いかもしれない。構造を論理として考えるのではなく、絵として考える。自分の想像を言葉に置き換えるのではなく、ただひたすら観察する。そうすれば何かが見えてくるかもしれない。

 

自分はお笑い芸人を遠い存在だと考えているが、実際のところまったく同じことに取り組んでいる。毎日ゲームのネタを推敲しそれが笑えるかどうかを考え、笑えなければ捨て笑えたものだけを形として作品に残す。

だから彼らには親近感を覚えて当然なのだが、実際のところ彼らを遠い存在のように感じている。同様に、ある種の漫画やドラマのコメディにも遠いものを感じる。

笑いには種類があり、自分のツボに入るものとそうでないものがある。たまたま彼らの笑いがそうではなく、別種の笑いがそうだという話でしかない。しかしその違いをうまく言語に落とし込めていない。

例えばツッコミというものがある。漫才でボケが常識外れなことを言うと、ツッコミがそれはおかしいだろうという旨の横やりを勢いよくかます。それがもっともな話なので笑ってしまう。漫画でもそうしたツッコミ芸が映えるものを見たことがある。

しかし自分はその種の笑いをあまり得意としていない。ツッコミが言葉として明言化されることで、それは自分の解釈というよりは模範例に対しての追随でしかなくなる。ツッコミ役の存在が一般常識の代弁者、解釈の正誤を定める権威となり、笑いどころを提示するガイドとなる。つまらなくはない。しかしどこか違和感がある。

むしろ自分はツッコミの不在によって生まれる笑いを好む。あるボケをかます人間がいる。その人間はツッコミの存在にかかわらずボケた狂言を繰り返す。しかしその人間がボケだと指摘する人間はどこにもいない。彼は狂人なのか?我々と同じ側の人間なのか?わざとやっているのか?本当に正気でないのか?彼を笑えるという自分の感覚は正しいのか?そもそも笑っている私は正気なのか?こうした緊張状態の中で受け手が試される笑いというのは面白い。ホラーと笑いは似ていると指摘した人間がいたが、その通りだと思う。

あるいはボケに対するツッコミが的外れである笑いも面白い。このツッコミの無自覚な常識感覚がまったくのトンチンカンであったり、あるいはある種の偏った思想に裏打ちされていることがうっすらと伝わるような笑いも面白い。うっすらと匂わせることが重要で、たとえ冷笑やブラックユーモアであっても作り手による意図の強制が見えると途端につまらなくなる。

要するに自分は、笑いの解釈の余地が自分に任されているような笑いを好み、方向づけられた笑いを苦手とする傾向にある。なぜか。それは方向付けられた笑いには、それを信頼するに足る強固な常識感覚が要求されるからである。常識から逸脱したボケは、その常識が通用するコミュニティに対する信頼が強くなければ納得の笑いとしてうまく消化できない。

自分がツッコミに抱いている違和感は以前見た新興宗教の演劇作品に抱いたものと似ている。彼らの演劇は端から見ればそれほど面白くもないが、彼らの演劇に爆笑している人間が大勢がいた。なぜか。それは彼らの演劇が宗教の教義とその正統性に裏付けられた強固な常識感覚に基づいて行われていたからである。

例えば彼らの演劇では敵対勢力の指導者を滑稽な姿で茶化し、教義に反する行いをした人間を馬鹿にしていた。彼らにとってそれらの逸脱者はボケの役割を果たしていた。それに対して登場人物たちは、それはおかしいだろう、私たちの先生はこんな連中とは違ってちゃんとなさっているというツッコミ役を果たした。だからその宗教に属していた人間は、宗教の常識感覚から逸脱していたボケを心から笑い、ツッコミ役の存在によって安心を得ていたというわけである。

自分の目指す笑いは脆弱な常識感覚に裏付けられた不安定なものだ。だから自分は常に自分の笑いが面白いのか自問しなければならず、そのたびに心が不安定になって気がおかしくなる。誰かに自分の笑いは面白いのだと言ってもらいたいのだが、その安心を渇望する精神が、自分を前例ある笑いへと誘惑し、その妥協から中途半端で曖昧なつまらないものが生まれてしまう。

自分は面白さを生み出す基点となる常識に自信がない。それが不安で仕方がない。しかしともかく、そこから生まれる笑いには可能性があるということは確かである。事実、不安定から生まれた笑いにはある種のシュールさがある。

感性の鈍麻を防止するために新しいコンテンツに触れ続けるべきという考え方は筋が通っている。自分の慣れ親しんだ作品ばかりを見ていたら受ける影響は画一化されていき、多角的な視野を失っていく。

そういうわけでたまに自分の好みでないアニメや映画を観るのだが、確かに面白いと感じるものが少なくないのである。自分は先入観で自分が見たくないものはどれもきついものと思い込んでいるが、当然ながらきつさにも濃淡がある。観たことで最近のアニメにも関心をひく側面があることに気付かされた。

しかしそれらをずっと観ていると、段々と不当な感情を抱くようになる。どうして自分だけが無理をして関心の外の世界に触れなければならないのか?どうして無理をして作品の良いところを見つけ出さなければならないのか?これらは作品がつまらないからそう思っているのではない。無理をして作品に触れることでアニメの界隈に媚びを売っているかのような自分に違和感を覚えるからである。

結局、自分の意欲に反した行動を理性で無理矢理決行させているから違和感に支配されるのだ。違和感を覚えながら楽しむ自分はどこか顔が引き攣っている。

この無理で自分の創作に何か変化が現れただろうか。おそらく何も変わっていない。無理によって、自分に好ましくない作品が全面的に否定すべきものではないことは理解できたが、わざわざそこから表現を参考にしようとは思えないし、無理にするつもりもない。結局無理をして何も得られなかったのである。

これでも尚、自分の視野を広く持つためにわざわざ好きでもない作品を見るべきなのか。以前こうした言説を支持していた人間と話したことがあるが、その人間は自分の守備範囲に自分が触れないことを不当と評価しただけで、こちらの関心にわざわざ触れようとする実験的精神の持ち主ではなかった。

大抵の人間はそうだ。しかし自分は馬鹿正直に苦痛を感じながらその中で許容できるものとそうでないものを見極める苦行を行っていた。その結果が慢性的な違和感だとすると、自分は無理によって人格を壊したといえる。やはり無理をやめるべきなのかもしれない。

しかし無理をしない程度に異文化に触れることは重要だと思う。おそらくこれからも苦手な作品を見るだろうし、そこから何かを引き出すだろう。ただし、自分が何を求めていて何を嫌悪しているのかは意識しておいたほうがいい。

 

 

先日の課題について解決策を思い付いた。

自分と鳥のいるマップが異なる場合、必ずしも鳥を常にそのマップにとどめておく必要はなかった。予めすべてのマップに鳥のグラフィックを配置して伏せておき、主人公が鳥のいるマップに入った時だけ鳥を所定の位置に置けばよかったのだ。

要はマップ移動の際、予め取得していた鳥のマップIDと現在の主人公のいるマップIDが一致した場合、予め取得した鳥のX座標、Y座標を読み込んでイベントを瞬間移動させる。そうすることであたかもそこにずっといたかのような演出ができる。

問題はマップの数が多ければ多いほどこのイベントの管理が大変になるということだ。何かひとつバグがあったとき、チェックをするのも修正するのも労力がかかる。またその分見落としも多くなる。

そこで共有できるマップは共有し、できるだけマップの総数を減らすことを考えた。最終的に建物の1階と個室のみを共有し、2階、東棟3階、西棟3階、上空、の計5つのマップに抑えることに成功した。共有された1階と個室については、すりぬけ問題を次のように解決した。1階はそもそも鳥を入らせない。看守か何かを置き1階には入れないようにする。個室に入る際にはいずれの場合もすりぬけ設定を解除し、当たり判定のある壁は通過できないようにする。

一旦これで作ってみる。何かあればまたブログに書く。