人生

やっていきましょう

感性の鈍麻を防止するために新しいコンテンツに触れ続けるべきという考え方は筋が通っている。自分の慣れ親しんだ作品ばかりを見ていたら受ける影響は画一化されていき、多角的な視野を失っていく。

そういうわけでたまに自分の好みでないアニメや映画を観るのだが、確かに面白いと感じるものが少なくないのである。自分は先入観で自分が見たくないものはどれもきついものと思い込んでいるが、当然ながらきつさにも濃淡がある。観たことで最近のアニメにも関心をひく側面があることに気付かされた。

しかしそれらをずっと観ていると、段々と不当な感情を抱くようになる。どうして自分だけが無理をして関心の外の世界に触れなければならないのか?どうして無理をして作品の良いところを見つけ出さなければならないのか?これらは作品がつまらないからそう思っているのではない。無理をして作品に触れることでアニメの界隈に媚びを売っているかのような自分に違和感を覚えるからである。

結局、自分の意欲に反した行動を理性で無理矢理決行させているから違和感に支配されるのだ。違和感を覚えながら楽しむ自分はどこか顔が引き攣っている。

この無理で自分の創作に何か変化が現れただろうか。おそらく何も変わっていない。無理によって、自分に好ましくない作品が全面的に否定すべきものではないことは理解できたが、わざわざそこから表現を参考にしようとは思えないし、無理にするつもりもない。結局無理をして何も得られなかったのである。

これでも尚、自分の視野を広く持つためにわざわざ好きでもない作品を見るべきなのか。以前こうした言説を支持していた人間と話したことがあるが、その人間は自分の守備範囲に自分が触れないことを不当と評価しただけで、こちらの関心にわざわざ触れようとする実験的精神の持ち主ではなかった。

大抵の人間はそうだ。しかし自分は馬鹿正直に苦痛を感じながらその中で許容できるものとそうでないものを見極める苦行を行っていた。その結果が慢性的な違和感だとすると、自分は無理によって人格を壊したといえる。やはり無理をやめるべきなのかもしれない。

しかし無理をしない程度に異文化に触れることは重要だと思う。おそらくこれからも苦手な作品を見るだろうし、そこから何かを引き出すだろう。ただし、自分が何を求めていて何を嫌悪しているのかは意識しておいたほうがいい。