人生

やっていきましょう

71日目

ある目的を遂行するために一から筋道を作り上げるのでなく既存の方法をそのまま採用しようとすることを模倣という。一般に模倣は既存の方法で確立された一定の成果を期待して行われる。模倣によって自ら筋道を構築する手間が省かれ、決められた手順と枠の中で再現することのみに注力できる。そのため目標がはっきりしており、実現に向けて計画が立てやすい。

模倣はしばしば学習の根幹を成す。何かを成し遂げようとするとき、優れたプレイヤーの技巧を再現することは、その本人の成果に限りなく近づくことを意味する。模倣するというのは答えのない問いに答えが用意されているようなものだ。彼が優れた技巧の持ち主なら彼のやり方を模倣することで自分も同様の技巧を獲得することが期待できる。これは学習経過そのものである。教師や入門書が示す型を模倣し、優秀なプレイヤーがその型をどう応用しているかを模倣し、それを自分がいつでも再現できるようにする、これが学習というものだ。この学習が高度に洗練されると一般人には到底理解できない専門分野を扱うことができたり、複雑な機械を生み出すばかりでなく改良し進化させることができる。これらは決して自分一人の発想では到達できない。

模倣は独創の対局に位置する。独創は模倣を崩し固有のものに改変する。模倣には答えがあるが独創に答えはない。したがって独創に再現性はない。独創を再現しようとするならその成果物を模倣しなければならない。大抵の場合独創に成果は期待できない。独創は奇怪なものを生み出し続けるが、多くは好まれない。プレイステーション初期の混沌とした作品群、あるいはVR黎明期に存在した奇怪なゲームの数々は、前例のないフィールドとその可能性ゆえに存在した独創的実験の稀有な例だった。その中から偶然評価を得たゲームを抽出して、開発者はそのシステムを模倣するだろう。そして後の参入者は彼を学習してやってくる。

自分は独創側の人間だ。過去にある優れた学習法を採用せず独力で成果を成し遂げることに価値を見出している。こういう人間の末路は容易に想像できるが、ご多聞にもれず自分も同じ道を歩んだ。独創にこだわるあまり成果は安定せず失敗ばかりした。模倣を着実に積み上げていった世間の人間に自分はどんどん追い抜かれていった。自分の独創に限界を感じたのは高3の冬、独自の学習方法では大学に受からず1年浪人した。結局予備校の提示する優れた学習法を模倣して大学に行った。

大学ではこれを自分の実力か何かと勘違いし独創の側に戻った。4年間自分は自らの独創をどうにか形にしようとした。だが明らかに自分はろくな成果を出せなかった。自分の中には世間に感じる違和感しかなく、精神も不安定で毎日自殺を考えており、とにかく自分が世間に逆転勝利するには独創しかないと思っていた。しかし何をやっても独創は答えがなく、独創への固執が余計に精神を狂わせた。そして大学4年になって模倣によって社会性を獲得してきた同期との差が歴然となった。彼らには答えがあるが、自分には答えがなかった。自分は何も言えなかった。そして自分は模倣による圧倒的な力を前に破れ世間から身を隠した。

冷静に考えると、ひどく愚かな人生を歩んできたと思う。独創ですべてがうまくいくと思いこんでいたのだ。自分は自らの独創に対する信頼をほとんど失ったが、未だにその可能性は信じている。世間には模倣することに何ら疑問に思わず人生を歩んでいる者がいる。彼らは皆優れた成果を残しているが、みな再現性に富む一方独創性に欠いている。自分はそれを面白くないと思う。猿真似をして何が楽しいというのか。しかしそれでも独創の敗北は受け止めなくてはいけない。自分の独創は根無し草の独創だった。

要は独創というものの捉え方を誤っていた。独創は模倣との相乗効果によって高められる。型を模倣し型を壊す中で自分にとって最良の型が生み出される。まずは型を学習する。目的を達成する為に他人の型を模倣する。壊すのはそのあとでいい。何もないうちから独創してもロクなものは生まれない。守破離という言葉を思い出すがいい。そして現代的な高度に洗練された知識を持たなかった古代の哲学者たちがいかに曖昧なものを生み出してきたかを考えよ。

しかしどこかで、それは無駄ではなかったと思う。断定的な価値判断はするべきではないが、自分がゼロから何かを生み出そうとした膨大な時間はきっと何かの糧になっている。模倣に費やすことができた時間をすべて独創に費やしてきたからだ。これが何を意味するものであれ、自分の経験として残っていることは確かだ。だから自分は模倣を取り入れることによって今の事態が少しは変わるのではないかと思っている。