人生

やっていきましょう

142日目

意識的に何かを取り組もうとしなくなっている。雑な気分に流されて気がついたらもう1日が終わっている。明日も同じことになる。

危機感がなくなっている。以前よりも、現状をどうにかしなければならないとは思えなくなっている。どうせ何をやっても無駄だと思い始めている。そうして何もしないでいたら、それも悪くないんじゃないかと思えてきた。怠け心ではなく、諦めに近い。

人生というものは何かを求めるにはあまりに短く、諦めるにはあまりに長い。人生を降りた人間は、膨大な空白と戦わなければならない。気が付いたら終わっていたという状況に至るためには、何千何万という「気晴らし」の機会が必要になる。自分はそれが地獄のように思える。だが自分は今その入り口に立っている。

生きることを諦めたくはない。だが気が付いたらそこには諦めている自分がいる。そんなに肩を張る必要はない。人生は険しい道もあれば易しい道もある。易しい道を選べばいいだけの話ではないか。こういう言葉に自分は無意識のうちに靡いてしまう。

それでも自分は、反射的にそうした甘えを全て殺してしまう。甘えるな。現実を見ろ。努力しろ。このままじゃいけない。前進しろ。成長しろ。内なる声がそうささやいている。

いったいどういうことか。なぜ自分はそこまで諦めないということに拘るのか。なぜ敢えて易しい道ではなく険しい道を求めるのか。なぜ自分は成長したいということに囚われ続けるのか。

分からないが、とにかくこのままではいけないという思いだけがあり、それが焦燥感となって自分の心を日夜かき乱している。恐怖と直に向き合って戦えと言っている。その先にしか未来はないと叫んでいる。

すべてに意味はない。だが本能として、自分はまだ前進できると思っている。諦めが自分の心の大半を占める中で、唯一それだけが自分を向上に駆り立てている。

それがなければここまで苦労することはなかった。ここまで傷を負うこともなかっただろうし、自分の目に見える世界がすべてだと思えただろう。

ただこの前進に対する内なる意欲、不幸なことにこれは存在するのだ。現状に留まることを忌み嫌い、自分を戦いに駆り立てるのはまさにこの本能による。

それが諦めと併存しているというのは相当な苦痛だ。諦めは支配的な感情だ。それに自分の脆弱な本能をぶつけたところでなんにもならない。何にもならないのに内なる声はささやき続ける。前を向いて戦えという。

絶望と闘争本能が混ざり合っている。互いが互いを殺そうとしている。それで精神が混乱している。頭がおかしくなりそうだ。自分は壊れてしまうのではないか。