人生

やっていきましょう

1001日目

配信動画を見ていると他人との距離感が異質な配信者に遭遇することがある。今回自分の見た配信者は配信者でありながら無表情で口数が少なく、しかし積極的にリア凸をし続けるという行動意図がまったく読めない人間だった。

この動画がネットで話題となったのは、このような異質な人間のリア凸に対して凸を受けた大物配信者が一矢報いたことによるが、多くの視聴者が配信者としての格の違いを褒め称える一方で、自分はむしろこのリア凸を仕掛けた正体不明な配信者の方に感じるところがあった。

異質な人間という点で自分と彼は近いところにいる。内向的で無表情で人とうまく話すことができない。彼と自分との決定的な違いは、そうした異質性ゆえに分をわきまえることをせず、自らのパーソナルな前提が己の社会的劣勢に対する負の感情に優越しているという点である。それが彼の無知ゆえか、自覚してのことかは分からないが、劣勢ゆえに尻込みする自分とはまったく異質な人間であることに驚きを隠せなかった。

日陰者といっても様々な人種がいる。自分のように社会的な劣位を自覚し、劣等感や苦悩に苛まれながら怯えて生きる人間もいれば、多数派の前提ではなく、己の歪んだ前提の中に生きて多数派と対峙する者もいる。確かにその姿勢、その距離感には違和感を覚えるだろう。しかしそれでも彼はひとりの人間として彼なりに生きている。

普段動画を見ている自分にはほとんど気づきにくいが、メディアが表象する人間像とはかけ離れた人間は確かに存在する。皆の理想となる外見を持ち、誰からも信頼を築けるようなコミュニケーション強者の背後には、千差万別の無数の不適合者が存在する。自分もその一人であるという自覚があるが、彼を見て違和感を感じる程度には自分もまだ多数派の常識の中で生きている人間なのだろうか。

ところで今日改めて自覚したが、自分の言葉が詰まってしまうとき、自分は普段他人からあのように見られているのだろうと思った。いかなる事情があれ、人は挙動不審な人間には不信感を覚える。そのことを自分は客観的に知ることとなった。

コミュニケーションに不信感を覚えるのは、相手が何を考えているかわからない時である。何を考えていて、何がしたくて、何者か分からない人間がいきなり近づいて、自分勝手な前提を押し付ける、これには対人関係の地雷原を踏み歩いているという自覚を持つべきだろう。

コミュニケーションは感情的な信頼関係を築くことが重要である。表情の硬い人間は何を考えているかわからないから信用されない。表情豊かな人間はニュアンスや意図を相手に伝えやすいから信頼される。動画で見た配信者も、相手の懐に入るような感情豊かな人間だったら見ていてそこまで違和感を与えなかっただろう。

そのため自分の挙動不審さを無くすには、こうしたぎこちなさの原因となる要素をひとつひとつ解決する必要がある。大抵は心因的なもので歪みは深いが、出せる感情は出す、出せない部分は論理で補うという意識を持てば多少は不信感を抱かれずに済むだろうと思う。

しかし、ふと思ったことだが、そうした信頼されやすいコミュニケーションを当然のものとして生きているコミュニケーション強者にはどこか不当なものを感じる。そうでない人間に対して、それで不利な思いをしたくなければ俺たちの作法に従えと言わんばかりの余裕が、自分の劣等感を余計に刺激するのである。

しかしそうした多数派の自明性をもろともせず、自らの異質で歪んだ自明性の内に生きる異常者には勇気を貰う。決して共感はできないが、大樹の影から外に石を投げるような、自らの参照可能な属性に自信の根源を求めている弱い人間、あるいは自身の内側にある同等の卑しい感情よりは、歪んだままの自分を貫いている異常者の方に自分は憧れを感じる。

事実の是非に対しては慎重に検討していく自分だが、こと価値観、こと様式といった答えの無い分野では、自分は自分の率直な価値観を重視すべきだと考える。その上で違和感のあるものは違和感があると認め、良いものは良いと言う。それが多数派と被ろうと異常者と被ろうと同じことである。