人生

やっていきましょう

167日目

対人関係は自分にとって最もハードルの高いものだと考えている。だが自分の想定する難易度に反して、世間の平均はこの問題を難なくこなしているという印象がある。もちろんこれは自分の能力が圧倒的に欠落しているということの証左であると思う。だがそれにしては、自分が自分に課している努力の量があまりに反映されていないのではないかと思う。とすればこれは量の問題ではなく方向性の問題ではないかと思う。あるいは自らの定義と世間との間にズレがあるのではないか。

この点についていくつか思い当たる節がある。自分は人と関わる時に、とにかく完璧で厳密でなければならないと思っていた。印象で物事を語ることは偏見を助長しやすい。信ぴょう性の高い裏付けがなければ容易く人に物事を語るべきではない。また、それを言うことで何が起こるかということにも注意を向けていた。この話題は今この場で言うべきことだろうか。少なくともこの場にいる誰かの利害に抵触しないだろうか。

そうしたいくつかのフィルターを自分に課して、たまたま通過したものを外に出すという作業を繰り返していた。だから所属していたグループからは、難しいことをいつも考えている人だとか、いつも本質的なことを語る人だと思われていたような気がする。だが事実は全く違う。自分のその言葉が出るまでの過程で99%の情報は処分されているのだ。そして自分の頭の中にいつも広がっていることの大半は、そのフィルターで弾かれる99%の、下衆でつまらないことだ(99%というのは言い過ぎかもしれない。だが8割か9割そうであることは確かだ)。自分が家で下品な動画を見て大笑いする様など誰も想像できないだろう。

対人関係が難しいと感じているのは、まさにこの1%を常に安定して抽出しなければならないと思っているからだ。しかし多くの人は人前でこれほど厳密に自分を制限しているわけではない。 おもしれーと思えばおもしれーというのだ。やりてーといえばやりてえという。ある程度のマナー以外何の制約もない。だからコミュニケーションに不足がない。

制約を課している自分が滑稽に見える。1%を10%、20%に広げてみてはどうだろうか。だがそれがなかなかできない。自分というよりは、人の目を気にしすぎるからだ。自分は今までフィルタリングされた情報だけを外に出してきた。だから他人にとっては、それが自分の安定した力量であると錯覚している。本当はその僅かな表現のほとんどが精神的に不安定になるほど何重にも制約をながら、ようやく偶然的に生まれるものである。ここで手を抜けば人は自分に対して失望するのではないかと思ってしまう。そんなことは赦されない。だから余計に制約を課すことになってしまう。

自分が挫折したのは、この1%に対する執念だ。人の感情、人の目の正体が分からない中で、どうにか自分の全力をもって適応することをやめてしまった。これで自分はもう人々に適応することはできないだろう。自分の身の程に合わない、はるか高いラインに目標を設定した結果、自分の精神が付いていけずに挫折した。

だが見方を変えればそれで良かったかもしれない。人はそこまで高いラインを要求しているわけではない。自分が勝手にそう思っていただけではないか。おそらく真実はそんなところだろう。現実に足のついた思考をせずに、すべてが自分にとってひどく困難であるという妄想に駆られていた。

今後再び1%の実力を得ようと思っていたとしても、今の現状ではそこには至れないことが分かった。いや、至れはするだろうが、長持ちしないということは分かった。短距離走者が長距離走で短距離のペースで走ったようなものだ。一時的に1位にはなれるだろうが、いつかはバテて追い越されるだろう。

 だからもうすこし、自分の目標ラインを下げてみようと思う。その目標が難なくクリアできたとすれば、次のステージに行ってもいいだろう。自分の実力とは、その目標をあまり意識しなくても達成できてしまう状況が安定して続くことだ。それができるまで、自分の身の程にあったレベルのことをするようにしたい。だが決して、それはいつまでもその場で安住して良いというわけではない