人生

やっていきましょう

1028日目

1000日目を超えたあたりからTwitterに毎日投稿していたブログの宣伝をやめた。始めた当時は死にかけた自身の価値づけを図る試みだとか何とか言って行っていたようだが、要はフォロワーに向けた一種の宣伝だった。それをやめた一番の理由は単に面倒だったからだが、自分がもはや他人という命綱を必要としなくなっていたということが大きい。

自分は自身の許容範囲を超えた自責を常に課し続ける傍らで、どこか他人が肯定してくれているということに期待することでかろうじて正気を保っていられた人間である。あまり認めたくないだろうが、ブログのリンクをわざわざTwitterに張っていたのは同じ理由であるように思う。自分は正気を失いかけて自殺寸前であった。しかしそこで踏みとどまって自分が再び立ち直ることに期待している誰かがいる、もしくはこんな自分であっても生きていて良い理由を与えてくれる何ものかがあるに違いないという妄想が、自分の精神崩壊をかろうじて防いでいた。こうしてみると、自分は孤立を求めている人間に見えて実は他者依存的な弱い人間であるということが分かる。

しかしあれから3年も経った頃には、他人が自分の生存を肯定してくれるという期待がほとんどなくなった。他人は自分に近い側にいる人間ではなく、どこか遠くの異人になってしまった。しかしそれはそれで良いことだと最近思うようになった。自分と他人はお互い分かり合えないのだから、自分は他人の考えにそれほど近づく必要はないし、また自分を無理に他人に寄せる必要もない。そう考えると今まで自分に課してきた無理に余白が生まれ、自分の関心に目を向ける余裕が生まれた。

改めて自分は他人の為に無理をしてきたと思った。自分がこれまで関わってきた人間の中には、自分が下手にしか出られないと踏んで高圧的になる人もいた。自分が何でも肯定的なフィードバックを返すからといって愚痴の掃き溜めとして利用する人もいた。自分が決して否定しないから、相手の関心と同じ色に染めあげようとした人もいた。そうした不都合な他者がいたことは事実だが、結局それらに対処できなかった自分にも問題はある。

自分は他人にとっての理想になりすぎようとしていた。英雄願望というか、要求する前に義務を果たすという思いが強すぎた。そこで逃げたら負けだと思っていた。しかしそうした無理をやめてから、徐々に自分らしさを取り戻すに至った。明らかに他者への反逆だが、構わないと思った。

自分は他人の関心を惹こうとしてブログを書いていたのか、他者への挑戦として拳を突き付けるために書いていたのか分からないが、いずれにせよ他人のことなどどうでもよくなり、結局ブログは自分のために書いていれば良いということで落ち着いた。見たい人はTwitterのプロフィールから勝手に見ればいいだろう。

奇妙なことだが、こうしたリンク張りをやめてからブログの書き方が自由になってきた。これまでは第三者が読んでも分かるような書き方をしてきたが、最近は自分が分かれば良いというレベルの文章を書いている。砕けた言い回しも多用するようになった。これはこれで良いかもしれない。うまく脱力できている。