人生

やっていきましょう

190日目

ふたつの物のうちどちらかを選ばなければならないとき、初めての問題に直面しどこから手をつけたらいいか分からないとき自分は明らかに思考停止している。

自分の頭の中をより正確に描くとすれば、はじめに数秒たじろいで、その後たじろいでいる自分に気がついてから、このままではいけないと思い、目の前の問題に取り掛かろうとする。その時自分が今何をしたらいいのか忘れている。そこでまたたじろぐ。それから思い出そうとして数秒で状況を確認する。はじめに直感でよさそうな選択肢を見出す。だが次の瞬間にはその選択肢を選ぶリスクが見えてたじろぐ。不安になって逆張りをしようとするが、他方の選択肢もリスクがある。どっちを選んでも悪い状況になる。だからパニックになって小手先で作った第三の選択肢を考えるか、あるいは思考を放棄して当てずっぽうに選択を選ぶ。そういう時はどちらも大抵失敗している。

これは致命的な欠点だ。横道に逸れる思考が多く、無駄が多い。あまり賢い判断であるとはいえない。賢い人間は、自分が迷っている間に、現時点で考えられる選択肢を整理し、その中でメリットデメリットを洗い出す。そしてそれらに優先順位をつけて、決めたら迷わず即実行する。少なくとも、決断や問題解決が求められている場ではこうした能力を持った人間の方が秀でている。

この差は深刻であると思う。自分の思考のひとつひとつが、迷いという無駄を含んでいる。これは解に至るスピード、実行に至るスピードを致命的に遅らせる。自分が迷っている分だけ相手は別のことをする余裕がある。その時間を有効に活用されたら差が開く。一方自分が不安や恐怖といった感情の無駄に左右されれば、差はまた開く。気が付けば取返しのつかないほど差は開いている。

スピードが速いことや迷いが少ない方が必ずしも優れているとは限らない。とはいえ冷静に自分の内面を覗いてみると、あまりに無駄が多すぎて事が深刻であろうと思う。この無駄ゆえに並のことさえできないのであれば、改善が必要である。

だがその改善方法を模索する上でも無駄な思考をしている。笑い話のようだがことは深刻だ。改善するとは、今まで自分がこだわってきた方法を捨てて、別の有効なやり方に切り替えるということだ。これがなかなか難しい。とくに自分のこだわりが自己肯定感に直結している場合は困難である。自分の場合、大抵の選択が「これぞまさに自分らしさだ!」と思っているやり方がいくつかある。それらの選択を通じて今にも崩れそうな自分らしさを再確認している。

自分はそれらを自分らしさと切り離して考える必要がある。すべてとは言わないが、換えるべきところは換える勇気を持つべきだ。自分を今一度見直して再構成する。そのためにいくつか思考の無駄を削ぐ努力をしたい。

 

そもそも思考の無駄を削ぐというのはどういうことだろうか。目的を設定し、その実現に利さない思考や行動は容赦なく切り捨てるということだ。そして目標に適う選択肢や行動指針を中核に据え置く。その中での最善を目指すためだけに思考する。極論を言えば全体のうち51%の利益と49%の利益が見込める2つの選択肢がある場合、特に理由がなければ49%を切り捨てるということだ。

自分は49%の方が気になってしまう。安易に切れる選択肢ではないと考えてしまう。一見利益が見込めないけれども、実は自分が見落としている深刻な情報があるのではないかと思ってしまう。もし間違っていたらどうしようと思ってしまう。

これが思考の無駄だ。この迷いが自分の決断を遅らせる。この感情の働きは必要なものだと思う。だがあまりに多すぎると、自分がミスを犯すことは無くなるだろうが、何も決断ができずに終わってしまう。だから問題に直面したとき、悩みが発生する前に打算的なアプローチをとれる訓練をする必要があると考えている。

そのために意識することを3点決めた。ひとつは明らかな地雷を踏まない範囲で練習するということだ。これは失敗しても大した痛手にはならないところで練習するためだ。背負うリスクは極力"時間"だけになるようにする。次にできるだけ自分が慣れていないもので挑戦することだ。これは不確実なものに対して思考の無駄を減らし決断する習慣をつけるためだ。最後に目標の達成が明確に分かるような目標に設定することだ。自分が目指すべき目標が曖昧であることから生じる不安を軽減するためだ。

実力的に可能な範囲で、自分が慣れていないもので、目標が明確なことをする。そのひとつを自分は今思いついている。だが他にやりかけのもの、例えば前からやっていた創作を投げ出して新たな分野に挑戦することに抵抗がある。ここでも思考の無駄が入り込む。だがとりあえずやってみても良いのではないかと思う。どちらも日々の中で両立すればいいと思う。