人生

やっていきましょう

597日目

自分が置かれている状況は、自分が見ようとしなくても依然として存在する。自分が窮地に置かれているということは疑いようのない事実だ。この事実を無理矢理受け止めようとすると精神がもたなくなる。だがいつかは越えなければならない壁だ。

自分は人一倍自分を責める傾向にある。特に自分が劣っていることに対する劣等感が強い。多くの人間が当たり前のように前進している中で、自分だけが停滞していると焦りと不安が同時にやってくる。だが自分は、それを努力で克服しようとするのではなく、自責をすることで宥めている。自分を責めて、不完全な自分を受け入れるという選択肢を絶った上で自分を戦場に突撃させる。

世の中には不安にならない人間もいる。劣等感という点で見れば、彼らは劣等感を抱かずに済むほどの実力を持っているか、実力を得るための際限のない努力レースから身を退けてほどほどに生きることに満足している。自分はどちらでもない。常に自分が劣勢であるような状況に身を置き続け、それでもレースの存在から目を逸らすこともできず、日々自尊心が枯渇している状態にある。

自分の不幸の原因は、高すぎる目標に対して見通しの立たない状態からどこまでいけるかということをギャンブルのように試していることである。そしてその高すぎる目標は、絶対に、何としてでも達成しなければならないと思い込みすぎる。だがその割には実現に向けてのプロセスが杜撰である。再現性のない、メチャクチャなやり方で突破しようとする。偶然とひらめきが作用して奇跡的にうまくいく場合がある。しかし大半は何をしていいか分からず失敗する。そのくせひとつの失敗を深刻に受け止めすぎて、この世の終わりであるかのように絶望の底に落ちていく。だから不幸になる。

最近分かってきたのは、自分という人間が本当のところどうなろうがどうでもいいということだ。自分は何か高すぎる目標を無理して目指す必要はないし、その失敗に精神を病む必要もない。まったくない。そうあらねばならないというのは思い込みである。

自分という人間はどこまでいっても等身大の自分でしかない。高すぎる目標に対して無計画に挑み失敗したという事実。これ以外には何も存在しない。その事実に対して様々な解釈が可能であり、自分は自責という解釈を反射的かつ過剰に行っている。ただそれだけだ。

自分は自分という人間の限界の内側にのみ存在するということに、なぜか納得を覚えてしまう。自分はどこまで行っても等身大の自分でしかない。だからこうあらねばならないという制約は存在しない。自分はただこうあってしまうだけの存在だ。そのため自分が窮地に落とされていれば、なるほど、様々な要因が絡んで結局今自分はこうなってしまっているのか、と受け止めることができてしまう。

納得はできるが望ましい結果ではない。そういう時は問題を特定して調整すればいい。ただそれだけである。他人がどう思うかについてあれこれ悩んだり、失敗を重ねて惨めになるということを恐れる必要はない。自分という人間は、他人に勝手に期待されたり失望されたりしているだけにすぎない。ならば勝手にさせておけばいい。

自分だけを見て、自分の関心の赴くままに自分の物語を生きろという話ではない。自分という人間は希望的観測に従った通りの人生を送れるわけではなく、物語の有無に限らず、自分は多くの人間と同じように、自分の思考や行動、置かれた環境などの影響を受けた結果としてただそこにあるという大変つまらない存在であるという話だ。

例えば自分は今ゲームの創作に躓いている。ストーリーが思い浮かばない。自分には才能が無いのではないかと嘆く。そうであって欲しくないと苦しむ。次第にそうであってはならないと思い込む。だから余計に肩に力が入って無理にストーリーをひねり出そうとする。

そうではなく、そもそも自分の才能とは、今まで自分が生み出してきたものの源泉となる現在の自分の能力や状態のことでしかない。だからそれはどんなに劣っていたり、どんなに優れていたとしても、こうであってはならない/こうであるはずのものではなく、こうであってしまうものである。だから才能が無かったとしても、こうであってしまうのだからひとまず仕方がないと思うことにしている。

それは何かを諦める理由ではなく、自分を生かす理由として捉えたい。こうであってしまうということは、そのまま自分の人格を否定する理由にはならない。そこには自分が思っている以上には調整の可能性というものが残されている。その可能性を模索する為に、自分は自責を否定し、事実を直視したい。自責をしかけた時はこのことを思い出そうと思う。