人生

やっていきましょう

自分は逆算して考えるということを今の今までしてこなかった。自分は目指すべき目標を定めその実現のために何ができるか、何をすべきで、何をすべきでないかということを考えたことがない。自分は一貫して思い付きで考え行動する。面白そうだと思うものに不用意に近づいて、いつだって下手を打って失敗に終わる。

逆算は連想の対極にある。逆算は能動的な思考であるのに対し、連想は受動的で自動的だ。したがって感情に駆られて勝手に沸いてくる連想とは異なり、意図して目指さなければ逆算という発想は起こりえない。

自分が逆算という思考形態を持たない明確な証拠が盤面ゲームの弱さに見られる。チェスや将棋ではほとんど勝てたことがないし、オセロでも大抵負けてしまう。すべてのゲームに共通して言えることだが、無数の可能性が示されており、その中でどれを選んだらいいかわからず適当に駒を進めていくにつれ、気がついたら追い詰められて負けてしまうことがほとんどである。自分の人生も似たような趨勢をたどっている。

だが最近になってようやくわかった。将棋やチェスといったゲームは連想という思考形態で取り組むべきものではない。相手を不利な状況に追い込み、自分を優位に立たせるにはどうしたらいいかを計画、逆算するゲームである。自分が負け続けるのは、無数の可能性に振り回されて目標を定めず、おもしろそうな位置に駒を置いてしまうからだ。将棋で何度もあったことだが、いきなり飛車角を敵陣に突撃させるのが面白くてやっていたら、その隙を突かれてあっさりと両者を取られてしまった。

逆算とはどのようにして行えるのか。無数の可能性がありながら何を計画することができるのだろう。それらの答えはおそらく仮説を立てるということにある。

仮説を立てるとは、確実な答えを持っていない状況でありながらも自分の選択や判断に根拠を与えることである。もしこの選択をしていたらどうなるかということを「わからない」で済ませるのではなく、このようになる「だろう」と考えてみることである。実際その選択をとってそうなるとは限らないが、根拠のある仮説というのは、明確な結果として自分に返ってくる。

例えば飛車角をいきなり敵陣に突撃させる暴挙を例に考えてみる。仮にそれがなんとなくうまくいきそうだと思ったからという浅はかな動機で行ったとする。そして見事にその2つを取られてしまった。ここで連想という思考形態を自明のものとして考えたとき、自分はおそらく同じような間違いを犯すだろう。なぜなら連想とは自動的なものであり、敵陣に主力級の兵隊を送ることは自分の好奇心をそそるものだからだ。しかし根拠のある仮説としてこの問題を考えてみると、こんな初歩的な失敗でも意味のあるものになる。すなわち自分は飛車角を敵陣に送り込むことで雑魚を一掃できるかもしれないという根拠のもとそれらを1ターン目に敵陣に送り込んだ。しかし次のターン飛車角はただ歩兵を取っただけで犠牲となった。敵陣に近づけば近づくほど相手の1つの駒に対して多くの駒が挟み撃ちできるからである。したがってこの仮説は有効でないことがわかった。だがこの失敗は決して無駄ではない。このやり方が無駄だと分かったからである。だから次からは同じようなミスは起こさない。もし自分が判断に根拠を持たずに連想で処理していたら、自分は無数の可能性に尻込みをしまた同じ間違いを起こし続けるだろう。

今のは単純すぎるケースだが、こうした逆算は3つの選択肢のうちどれを選ぶことが有効かといったことを考える上で役に立つ。それは消去法というよりむしろ積極的にひとつの選択肢を選ぶ際に役に立つのではないか。自分は情報量が多くなると目の前の情報から目を背け連想に任せてしまう傾向にある。だが今度は自分が何かをするために目標から逆算するということを常に頭に置いておきたい。おそらく不安や恐怖の連想に飲まれている自分を変えるのは、こうした計画的な思考である。