人生

やっていきましょう

387日目

これまで懸命に自分の人生を肯定的に捉える努力をしてきたが、そのすべてが偽物であるという自覚をついに払拭することはできなかった。陶酔が本物であると思うには物事を不利に捉えすぎた。あるいは謙譲の美徳のつもりか、自らを主張しない生き方を強いてきたことで自分の現実は主張しない受け身の姿勢に宿ることとなった。

何も主張せず、何ごとも他人事と捉え、自分の感情は抑圧し、自分の存在を消すことが自分にとっての現実であり、それ以上の願望はすべて偽物であるとしか思えなくなっている。現実とはある意味でそれまでの経験の蓄積がものを言う。自分は何かを主張することを過度に恐れている。自分はまるで銃口を突きつけられている状態で生かされている。こうした極限状態では、自分の感情、意思、権利といった保証がすべて偽物のように思われる。

主体の不在、環境に対する過度な適応、万人に等しく接するという態度、これが自分の現実だ。自分は願望を持ちながら禁欲的であり、好戦的でありながら過度に穏健であろうとした。この矛盾を無理に成り立たせようとして上記のような無理を強いてきた。そして最後には自分を殺した。そのまま他人に権力を明け渡し、今も尚、他人の都合で生きている。

誰が何と言おうと自分の人生は自分のものであり、誰にも侵犯を許さないという態度を持つべきだった。そのために相手と対立し戦うことがあっても、それが原因で離反することになっても、自分を貫き通すという強さを持つべきだ。自分にとって都合の良い環境、人間関係、手段というものを自分で選ぶことができる。こうした取捨選択をもって「価値」と呼ぶことができるのではないか。

自分に価値がないというのは、自分にとって何が有効であるかという判断ができていないという状態にある。価値が虚構であるという指摘は正しい。だが一方の事実として、価値は自己と世界の関係性のうちに宿っている。この問題で自分が圧倒的に欠けている視点は、価値判断の主体が自分にあるということ、つまり価値というものを自分自身が決定できるということである。

何度も言及してきたことだが、早い話、ノーベル賞フィールズ賞アカデミー賞芥川賞といったアワードがあるように、自ら「人生がんばったで賞」を作って自分に与えても良い。あるいはなにがしかのブログで日々言及されているように、自分が面白かった映画ランキングを勝手につけても良い。自分で絵をかいて額縁に飾っても良い。

もちろんこれらが賞と呼ぶに値するとは思えない。だがこうした価値判断をしてはならないという法もない。にもかかわらず、自分はそれらを無条件に偽物であり、排斥されるべきものとして激しく嫌悪している。

こうした反応を見てわかったことだが、自分は権威迎合的な人間であるように思われる。ブランドのある価値判断にその価値を認められることで自分が救われると思っている。一方で自分の考え、思想、作り出したものの数々を引き合いに出して、これらがいかに不完全で未熟なものあるかを自分に突きつける。自分の価値判断よりも多くの人間が支持する意見にしぶしぶ迎合する。自分の価値観はなかったことにする。

そう考えると肯定的に捉える努力がすべて偽物だという意見は、実際には迎合すべき権威ある価値が見当たらない、自分を守ってくれる強い価値が見当たらないということに対する嘆きであるようにも聞こえる。そこには庇護されたいという欲求がうっすらと見え隠れしており、どこまでも受け身であろうとしている。何とも女々しい感じがする。

おそらくそれは生来のものではないかもしれない。元々自分は自由奔放で気ままな人間だった記憶がある。いつ頃からか、自分の意見が何度も否定されるにつれ、環境に適応できず排斥されるのを恐れてこうした仕草を身に着けた。何年もかけてそれを自明のものとした。次第に目の前の人間が敵か味方か分からずに誰に対してであれ過剰に警戒するようになった。

今更過去を言及しても仕方がない。今できることは自分を価値判断の主体とすること、その判断が不完全であるからといってしり込みしないことだ。自分は少なくとも自分に適用できる範囲に限って自由な評価ができる。自分にとって何が良く何が悪いということを判断することができる。それは自分の未熟さゆえに誤った妄信や不都合に導くこともあるだろう。だがそれはその都度改善していけばいいだけの話である。これは叶わぬ願望でもなんでもなく、ただ単にそうすればいいというだけの話だ。

自分が自分を見失っており何ものにも現実感が抱けない、それゆえ自分に従うことが偽物であるとしか思えず、これまでのように受け身を構ることになりながら自分の人生を導いてくれる何者かに遭遇することはなく、ただ無為に時が流れている。なにをしたところですべてが無意味だと結論付け、何もしないことが一番だと思い込む。これが今の現実だ。そしてそこからしか現実感が生まれてきていない。この現実を変えることに僅かにでも価値を見出しているのであれば、自分はこれまでの考え方を改め、自らの価値判断によって生きることを受け入れる必要がある。初めのうちは偽物としか思えないかもしれないが、少しずつ受け入れて、不毛な厭世観を崩していく。