人生

やっていきましょう

631日目

創作から離れている。何かを表現する意味が分からなくなり、何も作れなくなった。多くのクリエイターが自認する「創る喜び」もなければ、かつてのように、とにかく身を切るようか思いで自分自身を証明しなければならなかった、ある種の切実さもない。

自分はいま事実と向き合うことで、自分が生きるに値するかどうかを見定めている。自分を誤魔化し、他責や逃避といった認知の負荷が少ない言い訳を自分に認め自分の都合の良い価値観に籠るということを自分は許せなかった。自分が生きるためには自分が強くなり、現実を直視し、自分に不利な状況でも進んで受け入れなければならないと思った。だから自分は安易な思い込みを極力排除しようとしてきた。

こうした自己否定と現実主義は芸術的感性をことごとく破壊する。自己表現という理想の追求はまったくの無意味であり、妄想の産物は現実に向き合えない自分の弱さを暴き出す。そう考えてしまう。いくら存在しない街や人や文化を生み出しても、いつでも現実の情けない自分の姿がちらつく。それで虚しくなる。

自分自身に対してそういう目で見るし、また他人に対してもそういう目で見てしまう。この創作の作り手はいったい何の根拠があって自らの創造物を価値づけられるのか。当然そんなことを他人に言う訳がないが、決して貶めるつもりはなく、自分の切実な問いとして常に他人に抱いている。

おそらくこの答えはこうだ。世の中には何かの価値を信じる者がいる。そして表現者の多くは自分の価値を信じている。彼らが生み出す作品は、こちらからすれば博物館で見るような死んだ造形物であっても、彼らからすればまさしく生きた存在である。彼らは生きた価値観の中にいて、躍動し続ける価値を信じている。

価値を信じる信じないは人による。価値を信じる者にとっては、信じない者は勝手に信じなければいい、でもこちらの邪魔をするなということだろう。結局は価値を信じる者が勝手に価値を標榜しているだけで、向こうからすればそれでいいではないかという話である。

無論創作の価値を信じられないのであれば離れてしまえば良いというのも事実である。しかし自分は、未だ創作というものに未練がある。とくに自分は創作に長年携わってきた人間であり、容易に自分のやってきたことを否定することができない。できれば昔のように、自分の価値を信じて創作ができた頃に戻りたいとさえ考えている。

しかしもはやそうなることはできないだろう。自分は多くの文人たちが真に自分自身であろうとして自殺したようにはならず、自分を現実的に変容させて生き延びようとする道を選んだ。その代償は大きい。

自分を殺した結果、自然体で創作をすることができなくなった。だが現実に向き合い自己を変容させたところで、自分が現実に適性があるわけではない。むしろより不利な状況に追い込まれている。

自分はどうすればよかったのか未だに分からない。ただ自分はいま生きていて、創作ができなくなったという事実だけがある。