人生

やっていきましょう

人に説明するというのは難しい。自分の理解を相手が理解できるように工夫して伝えなければならないからだ。

そのためにはまず自分が正しく理解している必要がある。理解が曖昧なままだとうまく説明することができない。自分で要点を抑えておくということが第一に重要なことだ。

次にその理解を言葉に置き換える必要がある。イメージで何となく分かっているからといってその理解を言葉に置き換えられるわけではない。言葉になっていなければそれを知らない人は理解できない。

そして相手が理解できる言葉で話す必要がある。自分が理解の指標としている言葉と、相手が理解の指標としている言葉は必ずしも一致しない。言葉が自分の理解に適うものであることは特に重要だが、説明という点においては相手の理解に即したものであることもまた重要である(だから説明は難しい)。

これを口で説明となるともっと難しい。自分の理解が追えなくなる。口で説明することの難しさは、自分の思考の修正過程を必然に表出してしまうということだ。例えば自分はAについて説明しようとした。まずAについて説明できることを整理し思ったことを口に出した。その時自分は自分の説明に理解の不備があったことに気がついた。つい考えこんでしまい説明が途切れた。しばしの沈黙。自分は別の説明ができないかを考え始める。同時にこの沈黙が続くことで相手に不快な思いをさせているのではないかと考える。ここで自分は不完全な説明を続けるか、自分にはまだ分からないことを認めるか、別のアプローチを試みるか、混乱しかけている自分をなだめるか、様々な選択肢を同時に考えて脳の処理が追い付かなくなる。そして結局いずれにせよ中途半端な結果で終わる。

文章というのはこの複雑怪奇で入り混じった思考(連想)の過程を、説明の上では完全になかったことにできる。過程はどうあれ最終的にシンプルにまとめられた情報をそのまま提示できる。相手もそれだけを見れば済む。だから自分は文章での説明はあまり怖くない。いつでも振り返ることができて、いつでも修正できる。口で説明するとなると説明に至るまでの過程まで話すことになり、これが本当に苦しい。

人に説明することのハードルが多すぎる。自分は自分の説明を振り返って、毎回うまくいかなかったと思っている。自分の理解と言葉は不完全で、相手に認識に合わせられたものではない。口で説明するとあー、とかうーん、と言うだけでいつも当を得ない。説明の上では予め用意しておいた方針をブレさせないというのが一番堅実なやり方だが、用意したものに合わせるということがどうにも我慢できない。いつだってもっと創造的でありたいという欲求に負けて杜撰な仕上がりになる。